リスペクト

なぜみとん今治は「今治愛に欠ける」と指摘されるのか 6(番外編)

~豪雨災害で失った大きなもの~

先日の豪雨被害で荒木君がとった行動は「被害状況をまとめる」だけだった。
その前に、「だけ」だったというのは実は語弊を含む可能性がある。
というのは芸能人でも声に出さずに多額の寄付金をしたり、ボランティアに行く人もいるからだ。
しかし、市民から見える部分という意味ではやはり上記の通りだった。
結論から言うと非常にがっかりした。

たぶん彼なりに考えたのだろう。

ボランティアのまとめ役になろうか?
マッチが物資の中継地点になれるかな?
マッチで救援物資を集めたら・・?

でも、「たぶん中途半端になるぞ。中途半端になったら被災地にも、救助側の団体にも迷惑がかかるかも」という結論に至ったのだろう。
その判断は確かに賢明である。
社会福祉協議会という取りまとめのプロがおり、そこは頭取に任せばよいのである。

しかし、それならばみとんができることは終了だったのか。

https://note.mu/tkhr_ark/n/n28d3f9669fab
この彼のノートにあるように「目立ちたい」一心で、「何かのまとめ役になれないか、、んー、なれそうにないな」で思考が完結したのではないだろうか。


余談であるが、あのノート「ぼくは目立ちたいだけかもしれない」は周りから反応がなかったことからも、また、内容が荒木君が尊敬するという岡山史興氏のノートの「ドア型人材」の記事と真逆の考え方をしていることは大変興味深い。
荒木君は自分の思考を言語化しているのが岡山氏と明言しながら、実は本質は岡山氏の思考回路や価値観の真逆の位置にいる人間ということである。
勿論、荒木君自身の「なりたい」自分のために彼がたどりつきたい価値観が岡山氏の考え方なのかもしれないが、見事なまでに真逆であったことを荒木君自身はどう捉えているだろうか。。

さて、本題に戻す。
1日でも良い。
先陣を切って一兵隊としてボランティアに参加し、その感想や被災地の現状を伝えるということはできなかったのか。
それに人々が心動かされ、市民の気持ちがより被災地に向き、ALL FOR IMABARIの精神がみとんの記事1つで今治中に産まれる可能性だってあった。
折しも、売り上げの営業努力よりも今は目立ちたいと言っていたじゃないか。。
勿論、派遣される現場によっては黙々と同じ作業をする可能性も高いが、待機場所や移動時など意外とボランティア中に人と血の通った交流する機会は他にもいくらでもあるものだ。

そこまでは、と言えど現地に行ってみて初めて気づけることがある。
ボランティア活動でも、意外と現地ではボランティア向けの道具や飲食物は揃っていたりする。
しかし、報道されていないボランティア側の人や現地の人の苦労、予想していない苦労や意外な被災状況の発見などもたくさんある。
僕のエピソードを紹介する。
僕は被災地大洲にかけこんだ。
しかし、「食べて復興!」という気持ちから個人食堂にお金を落としたい!という僕の想いが裏目に出て、現地の人に不愉快な思いをさせてしまった「かも」しれないことをした。
お店によっては、営業どころではなくて電話対応の手が煩わしいかもしれないのだ。
もし、今の僕なら。
被災地の飲食店の片付けや掃除のお手伝いに行き(お伺いを立てて不要ならば仕方がないが)、最後に営業再開の目安を聞いて、SNSにUPしても良いかと店主さんに聞く。それを繰り返し、被災地の飲食店営業状況をまとめたい。
お店側も、ボランティアも、市民も3石1鳥になると思うから。

他にも、社会福祉協議会のHPやSNSで書いてあることと、実際の募集状況が違っていて、あれ?ということもあった。
その辺に気づき、アプローチし、20万PVを活かして市内外に向けて発信する・・・そんなこともできただろう。

確かにただ闇雲に動くのは迷惑になることもある。
「待つのもボランティア。」最近よく言われることである。
しかし、アリのような微力だとしても、想いを形にして率先して自分ができる行動をとること。
それも大切ではないか。奇しくも愛媛は地理的要因、土地柄的要因からボランティアの手が足りていない、という現状が叫ばれていたことを考えても「旗をふって今こそ今治の先頭に立ってほしかったな」と強く思う。

自分の取り組みに直結するような成果が見えないかもしれない、汚れ役のような役割に飛び込んでいく姿勢が彼が目指している「ドア型人材」ではないのか。


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