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人は自分の体には向き合いたくないものだな

わたしは27才に病気・入院・手術をした経由がある体と今も倍以上の年月を付き合っている、それは死ぬ迄続くよ、何処までも‥。

大自然美しさ、儚さ、諸常無常の月日を人間の体は連動し続けながら、その過酷でもあり素直でもあり大胆でもあり、を、この身に感じてきた。


コンクリートで塗られた道路の壁の隙間から花や草が勢いよく飛び出しているのを見ると、、自然の力って‥ああいうものかな?って自分自身の体を思ったりした。同時にこの地球に全くの自然など無いなっと感じ思った。


歯が痛ければ親は歯医者行け!他の痛みが起こる時も薬だ!医者だ!となんの疑いもなくそう言っていた。行くのはイヤだけどそれしか知識も知恵も無かったし、親にもなかった。

イヤな薬やイヤな病院、気分の悪い方法しか、治る方法・場所がないと、ずっと病院・入院する経験まで思い付きもしなかった‥。皮肉なものだけど、きっとそこ迄来ないと、追い込まれないと向き合わないのが身体だと思ったし、そこで湧き起こる問い?が起きた事が整体への道へと進んだように後から思う‥。

人はそれをとも言うんだろうけど、ある意味自分の過去の記憶が(病気が刺激になって)開いたのかも知れないと今思う。


病気で手術して、それでやっと体にとってまともな疑問が生まれ、体を感じ知った!気がした。

気に止まるけど、それ迄問い?まで至らなかった‥。その問い?は、何故自分の体なのに、自ら治らないで、他人任せで、治しても貰うのだ?何故自ら治らないのだ!という、、漠とした言葉が飛び出していた。

誰に向かっている問い?世間の常識に対する問い?親への反抗への問い?自らに問うそれは今でも覚えていて、忘れない。

これは病気を通しての自分への問いと、内面の対話であると思う。高次の自分とのやり取りなのかも知れない。


整体では体に起る出物腫物、不調がチョコチョコある方がいいと言われる。敏感に体の変動を感じ取る、大げさにならない前に感じ取るのだから、敏感でいい体だと言われる。

それを感じ取ると治るコースが出来る、そうわたしは解釈している。‥無理な事を続けている、自分に合わない事をしている、イヤイヤ仕事しているなども含めて、、体の変動は起るから、それは体からの正当防衛として変動を起こしている、、実に出来のいい体という事になる。

野口整体には、わたしの問い❓に対する答えが直ぐあり、内側から腑に落ちたので、活元運動も愉気も不思議感ないまま今も続けている。


....わたしの両親も姉達もやらない。それでも会う時は家族のよしみで愉気を受けている(^^、、程度…。わたしは家族の中でも一人違う系統のよう(^^;)。両親とも二人の姉とも違う道(一人者)を生きているので中々理解しがたい事をやっている!と思っているだろう事は知っている、そんなそこから観れば浮いた存在かも.....。


一時は体は直ぐ変動するので、それを弱いなぁ‥と周りに言われたけど、弱い訳ではなく、内外様々の影響を受けて反応する体、体の知らせが、敏感な働きだと!と思ってきた。‥何も感じない方が大病になっていたりする。ちょこちょこ風邪をひいている方が丈夫なのだ!と先生も言っていた、なので咳しながら、熱出しながら、下痢しながら、黙って笑って過ごした。

誰かに治して貰ったり、薬を飲んだりしないと治らないもの!という習慣から離れて体を育てて来た(まだまだだけど(^^;‥でも不思議と覚悟のようなものが出来ている‥整体ってその覚悟が出来る事から始まるものなのだなって思った‥)。


殆どが親の環境・習慣を受け継いで当たり前になっている、また流行の医療情報もたくさん、更に何かあったときの為の証拠と保証と領収書的なものに変え、時にそれは自分の体を脅し脅される関係になったりする。

そこから離れたい。

自分の体を別の心の訴えの為に、駆け引きに使うとか‥。弱いから庇われて当然だ!弱いのに大事にしてくれない、これだけしてやったのに、と病気を弱い者の代表的武器にしていたりする。

増えて行く病名、新しい薬・手術法、、情報過多の現在で、

整体は病気を相手にしていない。病気を相手にして健康を測っているのではない。

‥時に何処かの偉い先生と活元運動を組むと、なんと弱い患者の方が先生の後ろに回り庇うような運動をしたりする‥。え?病気なんでは?な筈が、先生を庇う患者の有り余るエネルギーは、立場にあるのでもないし、病気の有る無しではなかったと知る。

お金の有る無しでも、立場の強い弱いでもなく、体力のある方が後ろに回ってします、自然と入れ替わって運動に至っている。

じゃあ病気はなんだ?と思ってしまうけど、行き場のないエネルギーは病気を造るという事も多くあるようだ。別の隠れた思いや、思い通りに受け入れて貰えなかった何か、また行動などが、別の言い方をすれば環境や条件がそうさせているのかも知れない。

が、、ここで他人の影響からの私の在り方ではなく、一個の命を持つ自分を自ら生き生きと発揚する力をどういう方向へ運ぶかは、、自分にかかっている。

昔昔は、誰かが、親が、周りが、、と私も言っていたけど、整体をやりながら経過してきた日月を思う時、他人が、環境が、誰かが‥は、少しは影響するだろう。けど最終的には、いやその過程から、やはり自分なのだという事を今更ながら実感している。


両親も亡くなり、体を毎月看て貰っていた整体の先生も亡くなり、会社勤めも終わり、いろいろな風景が一気に変わって見えた。この数年の私は必死とドン底のように感じていた。

わたしが心地いい、快と思う事は?

…なんとなく後回しになっていた、27年間やって来た活元運動や愉気のこと、、『健康生活の原理、活元運動のすすめ』の本を少しづつ書き、体験会を開きながら自己修練、足跡を付けて行こう。寒い季節ですが、この本もかなり頭が変わります。Amazonでも購入出来ます。

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最近、ふと家にある本を読み直してみた。(幽体離脱する訳ではないけど、いろいろなものに興味が湧く)もう何もかも忘れている。こんな事書いてあったのか?と初めて読むみたいに読んで、整体とは違う領域だけど、エーテル・アストラル体は全て肉体に浸透している。で役立った。視点の違う本を読んでいると整体との勉強になるものだとつくづく思う。

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ふと感じるものを中心に書いています。よろしくお願い致します。