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せつなさ(22)

 今日は、奈津と一緒にポルポルに行くための黄熱病の予防接種を受ける出発日1カ月前の日だ。朝早起きして近所を軽くランニングした後、シャワーを浴びて出かける用意をした。バイトはしなくていいと言ってくれていた母だったが、去年の秋ごろから世界的な不況で株価が値下がりし始め、その傾向をすぐに察知するや大半は売り抜けたが、それでも損を出した。動かさなくていいものはもう動かさないで、長期で持っておくという方針転換をしたようだった。父と母は父が戻って以来、何事もなかったように暮らしていて、今では以前より仲が良くなった。今日は父と母の何か二人だけの秘密の記念日らしく、夜は食事に出かけるんだと母は浮かれていた。
 電車に乗って、ぼんやりポルポル共和国のことを考えながら、流れる車窓を見ていた。ふと、隣の車両に目をやると、見たことのある横顔が見えた。遠目だから、はっきりとはわからないが、肩の線や髪形が秀に似ている。途端にそわそわし始めた。もしかしたら、秀かもしれない、でも違うかもしれない。どうしたらいいのだろうか。もう無視することはできなかった。彼かどうか確かめるために、人ごみをかき分けて、隣の車両へと移っていった。秀だ、絶対そうに違いないと確信めいた気持ちで近づいていった。やっと彼の前に回り込んだ。別人だった。のぞきこまれたその人は不思議そうにちらっと見て、メールを打っていた携帯電話にまた、目を落とした。
 こういうことは何度も繰り返したことだった。雑踏の中の人々に彼の面影を見つけて、そうするともうそれだけで胸が早鐘を打ち、彼でないかどうか確かめずにいられない。確かめて、今まで秀だったことは一度もない。携帯電話の番号とメールは今も携帯のメモリの中に入ってはいるが、そこに連絡を取ることはとてもできなかった。それだけは、最後の一線という気がした。それに、あのカナコがメモリを削除していないとも限らなかったから、かけても私だとはわからないかもしれないのだった。それが一番怖かった。あの最後に毎英スポーツで言葉を交わした瞬間のように、全く面識のない人という態度で接せられることは一番こたえるだろうと先回りして考えた。

せつなさ(22)

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