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ぐるぐる巡る(16)

「秀に会わせてください…」「とりあえず、私に言えることは言ったから」カナコは席を立って、背筋を伸ばして去っていった。その背中をぼうぜんと黙ったまま見送るしかなかった。店を出たカナコが、さっきと逆方向にスクランブル交差点を駅の方に向かって、渡っていくのを座ったまま見ていた。信号の向かい側から渡ってくる大勢の人に紛れてもしばらく彼女の帽子を見失うことはなかったが、やがて彼女は駅の改札の中へと消えていった。今日は授業があったけど、とても途中からも行けるような気がしなかった。とりあえず、家に帰ろう。そう思った。
家に向かって電車に乗った。カナコの言った言葉、秀が今どうしているのかをずっと考えていた。何とかして、秀に会わなくてはならないと思った。でも、どうすればいいのだろう。それに、もう秀は何もかも忘れていて、私のことも思い出せないのかもしれなかった。あの日のことも、何もかも、出会ったことさえも。秀が電話をくれないはずはない、信じていた事実は裏切られなかった。理由があったのだ。きっと私に会えば、あの日の、あの夏の日に見た光景を見れば、連れていってくれた海岸に戻れば、きっと何もかも思い出してくれるに違いない。最寄り駅から家までの道のりも、家に着いて自分の部屋に戻ってからもずっと頭から秀のことが離れなかった。母は出かけたらしく、家にはいなかった。きのうよりもずっと疲れた感じがして、ベッドに横たわる。まだ、昼間で明るいのに、眠りに落ちていった。
 夢を見た。地下鉄で銃を突きつけられる恐ろしい夢だった。目が覚めると夜明け前の4時4分だった。母はずっと私のことを起こさなかったらしい。起き上がると、そっと忍び足で足の裏に冷たい床を感じながら階段を降り、台所で冷蔵庫を開けて、冷水をコップ1杯飲み干した。ベッドにまた戻ったのに目が冴えてしまって、寝付けなかった。頭を占めているのは秀のこと。声を聞きたいし、もう一度あの日に戻りたい。切実にそう思った。秀は今この瞬間どんなことを考え、何を感じているのだろう。そんなことがぐるぐる頭を駆け巡り、熟睡はできないまま朝を迎えた。

ぐるぐる巡る(16)

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