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家族の多様性を銃にはしない【おさるのジョージ感想文】

アニメ「おさるのジョージ」を見ていて、気がついた。

ジョージの世界に「お母さん」「お父さん」があまりにもいないのでは?
みんな幸せそうに暮らしているが、父・母・子という一般的な核家族で暮らしている登場人物って実は全然いないのでは?

登場人物は子供だけというファンタジーなアニメも存在するが、「おさるのジョージ」は違う。様々な大人が登場し、家事や仕事など日々の営みを大切にするリアリティのあるアニメだ。

しかし「お母さん」「お父さん」が出てこない。


***

そこで、主要登場人物の家族についてアニメの情報をもとにまとめてみた。
(おさるのジョージに興味ない方はこの部分を飛ばして読んでもらって構いません)


【ジョージ】
黄色い帽子のおじさんと二人で暮らしている。ジョージの父母に関しては一切触れられていない。(絵本では黄色い帽子のおじさんとアフリカで出会い、ジョージを気に入ったおじさんに捕獲され連れて来られる)

【黄色い帽子のおじさん】
ジョージと二人暮らし。
母親に手紙を書くシーンがあったので母は存命のようだが登場はせず。エネルギッシュなおばが登場したことはある。

【ビル】
ママの話を時々するが、登場は回想シーンのみでしかもママは後ろ姿しか映らず。
新聞配達に精を出しているのは母子家庭で母を支えるためかも?
ビルの母が結婚する回があるが(再婚?)、ビルは手紙を読む役にワクワクするばかりで、感傷的なシーンはなし。
ラストはウエディングロードを歩く母を、新しい父である新郎と一緒に笑顔で迎えている。そのシーンでも母は後ろ姿のみ。
結婚式の回以降も父母は出てこない。

【アリー】
祖父母であるレンキンス夫妻の家で突然暮らすことになった。親については登場せず。周りも本人も言及なし。

【スティーブとベッツィー兄妹】
マーガレットおばさんと3人で暮らしている。
母の日の回でマーガレットおばさんにカードを送るが、実の母には言及せず。
スティーブとベッツィーで髪質がだいぶ違うので、二人が血の繋がった兄弟なのかも疑問。

【マルコ】
主要登場人物の中で唯一、父母と暮らしている。姉と叔父も入れて5人家族。
メキシコ人で家族みんなで路上ライブを行っている。母の日には家族みんなで母のためのパーティーをしていた。


以上、テレビの情報を元にまとめてみた。
一番登場頻度の少ないマルコだけ父母と暮らしていたが、おじが同居しているという点で少し特殊。

血の繋がった「お父さん」「お母さん」そして「子供」という一般的な核家族で暮らす人物が、やはりジョージの周りにはいないようだ。

***

一般的な家族像から逸脱した登場人物しかいないことに気づいたのは、「おさるのジョージ」(およそ300話)を何周した頃だっただろうか。
(以前のnoteで書いたが、子供らがジョージにハマってアマプラで延々とジョージを見続けていた)

ずいぶん長いこと気づけずにいた。

ジョージに詳しいママ友二人にこの気づきを語ったところ、二人とも驚いてくれた。
「え、すごい! 全然気づかなかった!」
「言われてみれば、「おばさん」って呼んでたね。えー、でも気にならなかった」

そしてなぜ普通の核家族がないのか、に話が進む。

「 絶対意図的だよね?」
「やっぱ、両親がいない子供への配慮とかかな? いろんな家族があっていいよっていう」

うんうん、とあいづちを打ちつつ、少し胸がチクッとする。

実は私も母子家庭だ。高校3年生の時、親の離婚を経験している。
当人同士の問題だし、と大人ぶって冷静に受けとめたつもりだった。受験で頭がいっぱいだったし。
けれど本やテレビで離婚を扱っているとチリっと痛みを感じた。逆に円満な家庭の話でも。
自分の中にひっそりと生まれた歪さを再確認してしまうようで、目をそらしたくなる。それでも家族というテーマに過敏に反応してしまう。


だからジョージを観ていてその家族像に気づけなかったのは、自分でも意外だった。


***


そんなことを考えていた時、このnoteを読んで考えがまとまったので引用させてもらいます。ご本人のnoteと少しずれる解釈になっていたら申し訳ないですが。
(強さと優しさを併せもち、しなやかで自省のきいた末次由紀さんのnoteがとても好きです。何度も読み返させてもらってます。)

漫画を描く際に「チェーホフの銃」という概念にとらわれていたが、それは大まちがいだったのではないかと考えられたお話です。

チェーホフの銃とは
「銃」が場面に出てきたならば、物語の中で必ず使われないといけない。使わないのなら置くな。「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」


生理用品とのコラボのお仕事を経て、ご自身の漫画のキャラクターたちを、まるで生理がないかのように描いていたことに気づかれたそうです。

生理痛がひどくて出番3回に1回くらい「う…生理痛で辛い…」と言ってるキャラクターがいてもよかったのに、そう描かなかったのは自分です。
「生理痛で辛い」というキャラクターを描いたらそれを主軸に1話描かなきゃいけないのではないか。物語にちゃんと絡めないのならその特性は描いちゃいけないのではないか、という判断をしていました。

生理のある女性も、車椅子の人も、目が見えない人も、耳が聞こえない人も、病気の人も、義足の人も、その存在が「銃」であると勝手に思っていたんです。物語に登場したら、無視できない特別なテーマとして見えてしまうと。

「一般的」「普通」から外れたものを登場させたら、それをテーマにしなくてはいけないという意識。その存在を「銃」と意識してしまう気持ち。
なるほど、自分にもある!と思いました。



逆に言うと、おさるのジョージにはそれがなかった。
いや、「銃」にしないよう細心の注意を払い、意識的に行っているのではないか。

「一般的」じゃないことを、気づかずに受け入れさせること。
多様な家族の形を決して特別なテーマにしないこと。
なんの感傷もなく、ただ堂々と生き生きとそこに存在させ続けること。

「多様性を「銃」にしないこと」こそ、アニメ「おさるのジョージ」が密かに掲げたミッションではないだろうか。

多様性を声高に叫ぶよりも、多様性をフラットにただ描き続ける方が、みんな自由でいられる気がする。


(さらに言えば、ジェンダーや人種についても、アニメ「おさるのジョージ」では多様性を描きつつ、意識的に「銃」ではなくしていた。
例えば「天才科学者ワイズマン博士」は絵本では白人男性だが、アニメでは褐色の女性になっている。そしてもちろん「女性だから博士になるのに苦労したエピソード」のようなものは一切ない。)


「物語」や「テーマ」として祭り上げてしまうことで生まれる差別がある。
言及しないままそこに存在させることこそ、そのモノへの肯定になるのではないか。


末次先生のnoteに「私たちが思っている普通はあまりに幅が狭く、その幅を狭いままにしていることに自覚のないまま加担していた」という一文があった。
「おさるのジョージ」はコミカルで子供向けなまま(だからこそ子供に向けて)、普通の幅を太くするため密かに尽力しているのではないか。

***

おさるのジョージの世界で。

いろんな事件が起こり、悲喜こもごもあるけれど、
みんな自分の置かれた環境の中で、周りの人を大事にし、ささやかなことに幸せを感じ、ごきげんに一生懸命生きている。

それでいいんだなって穏やかに思える。

このアニメがこれからもずっと世界中で愛されますように。


こんなのも書いてます。


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