アンバサダーの発言から読み解く庶民の未来

頑張って解読していこうというもの
だが氏の本を読んだわけではないので、恐らく理解したと思っても理解しきれていないのだろう

巷の感染症騒動の裏で動くムーンショット目標
これが未だに表立って流れることはなく、内閣府のページを確認しに行く情報通か、関係者の情報を個別に追っているかじゃなければこの単語に辿り着くことすらできない水面下で進むこの話が、具体的に騒がれ始めた時期と感染症騒動が勃発した時期がちょうど重なることからも、騒動はこの目標を民衆に無理やり浸透させる為のショックドクトリンなのではないか、と陰謀論的に語られているわけだ

ようやく芸能人に注目された


それが事実かはさて置いても、この目標が現実に動いていることは確かであり、庶民の生活に直接関わってくるこの話が、何の国民投票もなく勝手に進んでいる以上、その経過を監視したくなるのは自然な流れだと思う


さて、そんなムーンショットだが、私が個人的にウォッチしているのが、今を時めくこの方であり、本記事でも注目することになる


軽快な口調で難解な言葉を操る氏に、正直一時期ハマっていた
そして暫く離れていた所にこの騒動が発生し、同時にムーンショットのことを知ったとき、真っ先に連想したのが、氏が掲げるデジタルネイチャー構想だった


ということで本記事では、氏の難解な発言を可能な限り読解していくという所存である
その未来が真に我々が望むものなのかどうかを見極めたい


今回取り上げる記事がこちらだ

人間中心主義を超えて:デジタルネイチャーへ

早いもので、2016年も1/4が過ぎ去ろうとしている。テクノロジーの時代だと思う。Atlasは雪原を歩行し、イ・セドルはアルファ碁に敗れた。AAAS(アメリカ科学振興協会)年次総会の基調講演はCrispr-Cas9のジェニファー・ダウドナ博士で、市販品のVRキットは市場に出荷されるのを待っている。

この3カ月に積み重なったニュースだけで、いくつもの可能世界が描けてしまう。
・計算機身体が人のように動き、
・知的ゲームを人と楽しみ、
・遺伝子というプログラム言語のコンパイラーが流行し、
・個人の五感が包括されつつある。

昨年末に刊行された「魔法の世紀」の最終章で、人間中心主義の脱構築された世界、計算機自然:デジタルネイチャーについて述べたが、この世界はまさにテクノロジーのイデアを基軸にして人を脱構築しようとしている。

1974年、21世紀を前にしてメディアアートの父、ナムジュンパイクは“Electronic Super Highway”(記事トップ写真)として将来発展するだろう電信の究極系=インターネットについて語り、それが人にとっての次なる大きな踏み切り台になると言った。

そして、今我々は1989年、ティム・バーナーズ=リー卿から始まるウェブ文化を踏み台に、インターネット経済を発展させ、1991年にマーク・ワイザーの語ったユビキタスコンピューティングの時代、IoTの時代を超えて、次の世界に踏み出そうとしているのだ、それは人の踏み切り台ではなく、人間中心主義からその次のパラダイムへの踏み切り台だと思う。
モノと人や環境と人といった人間ー機械系の価値観が崩れようとしているのだ。

テクノロジーの変化が我々に求めようとしている事実はおそらく下記の四つだ。

1.身体はタンパク質コードによって記述された有機的機械である。
2.心はやがて人工知能によって実証され解体され記述され得る関数である。
3.五感を再構成することで個人やコミュニティによって違った現実を定義しうる。
4.計算機発展以降、ヒトは世界を観察し解釈を与えうる唯一知性ではない。


1981年、アメリカの社会批評家モリス・バーマンは著書「デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化」の中で下記のように述べた。

マックス・ウェーバーが指摘するようにテクノロジーによって世界が脱魔術化された。
しかしそのテクノロジーが専門化を繰り返し脱魔術化されていく過程を例示し、デカルトのような人間中心知性主義から、ベイトソン的な脱人間中心、ヒト(心/体)モノ自然の関係性型世界観への移行を語った。

昨年の「魔法の世紀」の中で語った魔法とは、バーマンのいう魔術のことであり、関係性を記述しうるもの=計算機がさらなる魔術化を進行させた果てに、計算機定義の超自然がありうるという論だ。なぜ、今そういう議論が必要なのだろうか、デカルトの時代を振り返ってみたい。

GIZMODE-僕らは2016年のことをどんな風に思い出すだろうか? 楽観的シンギュラリティ、貧者のVR、魔法の世紀へ



出だしから小難しい話が続くわけだが。

昨年末に刊行された「魔法の世紀」の最終章で、人間中心主義の脱構築された世界、計算機自然:デジタルネイチャーについて述べたが、この世界はまさにテクノロジーのイデアを基軸にして人を脱構築しようとしている

この「人間中心主義の脱構築された世界」は
=「計算機自然」
=「デジタルネイチャー」
=「人を脱構築」
の関係にあることになる

ではこの「人間中心主義」とは何か、脱構築とは何を意味するかだ


ポスト構造主義」を代表するフランスの思想家ジャックデリダの中心思想。デコンストラクションともいう。ギリシアのプラトン、アリストテレス以来の西欧形而上(けいじじょう)学の中心テーマは「存在論」であったが、脱構築は、それを解体しようとしたハイデッガーの思想を発展させたものといえる。

デリダはさまざまな概念装置を用いて、議論を立ち上げている。デリダによれば、形而上学は、「ロゴス中心主義」「音声中心主義」「現前(今、ここにある意味されるもの(シニフィエ)の現前)の哲学」であり、「存在‐神‐論」onto-théo-logieの構造を有し、女性を受動的なものとし支配しようとする「男根中心主義」の性格をもっている。デリダは、こうしたロゴスの支配している「現前の形而上学」を解体しなければならないと主張する。

哲学が伝統的に用いる二項対立(暴力的な階層秩序をもち、それらの項のうち一つがつねに他方より高い地位にある)を「脱構築するとは、何よりもまず、とりあえず一度この階層秩序を逆転するということである」(『ポジシオン』)とする。

 つまり「脱構築」の戦略とは、
内部と外部、
パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)、
魂と肉体
などの二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けることである。

脱構築ーコトバンク
https://kotobank.jp/word/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89-161863


「脱構築」という言葉自体が哲学用語のようだが、

哲学が伝統的に用いる二項対立(暴力的な階層秩序をもち、それらの項のうち一つがつねに他方より高い地位にある)を「脱構築するとは、何よりもまず、とりあえず一度この階層秩序を逆転するということである」(『ポジシオン』)とする

という定義からも、「現時点で地位に差のある対立する二つのものの立場を一度逆転させる」ことになる

では氏が言う対立する二つのものとは?

1974年、(-)ナムジュンバイクは、(-)インターネット(-)が人にとっての次なる大きな踏み切り台になると言った

そして、今我々は(-)インターネット経済を発展させ、(-)IoTの時代を超えて、次の世界に踏み出そうとしているのだ

それは人の踏み切り台ではなく、人間中心主義からその次のパラダイムへの踏み切り台だと思う。

モノと人や環境と人といった人間ー機械系の価値観が崩れようとしているのだ。

1981年、アメリカの社会批評家モリス・バーマンは著書「デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化」の中で下記のように述べた。

(-)テクノロジーによって世界が脱魔術化された。
しかしそのテクノロジーが専門化を繰り返し脱魔術化されていく過程を例示し(-)ヒト(心/体)モノ自然の関係性型世界観への移行を語った

の記述からして、人間ー機械(テクノロジー/計算機)の対立であることは疑いない

そしてその「関係性の価値観が崩れる」ということはまさに脱構築を意味しており、従って「人間中心主義の脱構築」=「人の脱構築」とは、人間と機械の立場を逆転させることを意味する

機械は元々人間が生活を便利にしたくて生み出したものだ
故に

哲学が伝統的に用いる二項対立(暴力的な階層秩序をもち、それらの項のうち一つがつねに他方より高い地位にある)

の二項対立では、当然人間の方が高い地位にある
このことから、単に便利になって快適、などという夢の詰まった話ではないことが分かる

道具を使う世界ではなく、道具に使われる社会になるのだ
巷でAIによる支配の社会を謳う活動家がいるが、この記事が論理的にそう解読しかできない以上、彼らを嗤うことはできない


争点があるとしたら、もはやそれが事実か否かの次元ではなくその社会が人間にとって住みよいか否かである


(続)


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