抗原原罪という詐欺

例のワクチンで取沙汰される話題の一つに「抗原原罪」という現象がある。

ワクチンによる免疫化で記憶させられた免疫記憶の「刷り込み」に執着する余り、変異した病原体に免疫系が対応できず、却って感染の確率が上がるという現象である。

私はこの”原罪”だの”トロイの木馬”などといった宗教用語が科学に介入する時点で胡散臭さを感じていた。まるで”昔の恋人の記憶が忘れられなくて今は恋愛なんて考えられない”などというセンチメンタルに浸る安い青春ドラマみたいな概念である。

「病原体の急速な変異に対して免疫系が適応できない」

この解釈に人間の傲慢さを抱くのだ。

この解釈がある限り、”次 はもっと最 適な抗原提示”を考える行動・研究に繋がり、要するに”改善の余地”が産まれることになる。

ワクチンなぞ黒魔術以外の何物でもないと思っている人間からすれば、この概念の存在自体が”改善の余地”を敢えて残して次に繋ぐ為のものにしか思えないのだ。

幾ら反ワクチンの立場をとる正義の科学者を気取った所で、「失敗が分かっていた」などという言葉が出てくる時点で「自然現象は制圧可能である」という信念がそこにはあり、何れにせよ免疫には人工的な介入が必要との傲慢さがあることに変わりはない。

ワクチン、並びに免疫学が見せる節々の解釈は、こうしたパターナリズムを前提とするもののように思えて仕方ない。

WHOの定義する”健康”とは「肉体的・精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」だ。

この健康とは、果たして人間の自然な生では成しえないことなのだろうか?この健康概念の上にパターナリズムが結合すると、「完全に良好な状態」は人為的な介入なしに達成しえないことになり、つまり、そもそも人体は初めから科学技術・薬物による介入を前提として設計されていることになる。自然が生み出した産物が人間の存在を前提とするのだ。これ以上踏み込むと、「人間が神に与えられた役割」などという宗教論争に踏み込む気がするのでやめておくが、健康概念に留まらず、本件のテーマとなる抗原原罪という概念、そして「失敗が分かっていた」という言葉にも同じ違和感を抱いた次第である。

話を抗原原罪に戻すと、これは現実の観察にそぐわない。抗原の急速な変異に対して免疫系が適応できないとすれば、アレルギーは一過性の疾患のはずである。生涯にわたって特定抗原に生体が過剰反応する理由は、免疫系が適 応 で き て し ま っ て い る か らに他ならない。

この現実の観察を裏付ける証拠として、免疫系が急速な病原体の進化にきちんと適応する能力を報告した文献がある(Goins et al., 2010)。この文献は極めて重要なのでいずれ解説するが、とにかく「変異株に対して生体が抗体を生成しなかった」事実だけで以て、それを免疫側の記憶能力だけに責任を求めるのは小門違いだと言いたいのだ。「生体が抗体を生成できない」状況など環境・生活上に考慮すべき因子が大量にあり、”抗原原罪”という概念がある限り、そうした生活上にある真の原因に対して視野狭窄に陥ることになると考えている。

そしてこの発想に至らない要因には、当初の”アレルギー”の意味が歪曲された形で現代に伝わっていることもあるだろう。現在の狭義の”アレルギー”は即時過敏型反応、特にIgE抗体の検出される症状のみに限定され、要するにアナフィラキシーと大差なく使用されてしまっている。

アレルギーという言葉は元々、生体外の異物に対する生体の反応性の変化を指す概念である(Igea, 2013)。蜂に刺されると二回目以降はアナフィラキシーのような過敏反応を起こす、病原体に一度感染すると次は耐性ができる、花粉抗原の頻回曝露(減感作療法)で過敏反応が消失する、そうした曝露の前後で変化する同一抗原に対する生体反応の決定機構を指したのが元来の”アレルギー”であり、現代医学が”免疫”と呼ぶ有益反応、”過敏症”と呼ぶ有害反応は、どちらも曝露後に生体が示す多様な反応の一つに過ぎず、アレルギーとは両者を連続体だと構想するものである(Richard, 1968)。

(Igea, 2013)-Fig.2より
フォン・ピルケが開発した「アレルギー」の原型となる考え方の図。
個体が抗原(細菌、花粉、食物など)に接触すると、反応性に変化が生じる。この変化(von Pirquetによれば「アレルギー」)は、防御反応と有害反応を引き起こす。防御反応は抗原に対する免疫力を高め、その抗原に触れても症状や徴候が現れないようにし、有害反応はその抗原に触れた後に症状や徴候を引き起こす。
最初の反応は「免疫」と呼ばれ、2番目の反応は「過敏症」と呼ばれる。両者は同じ生理的プロセスの末端であり、重なり合うこともある。

現代に至るまでの解釈の拗れは、免疫学の萌芽の時期に当たる20世紀、異物に対する防御機構と定義されていた”免疫”の概念に相反した為である。絶対的な防御のはずの免疫が、同時に宿主に対する害になりうるとの両義性の概念が当時の科学者から拒絶され、特に"アナフィラキシー"の発見者であるノーベル賞学者のチャールズ・リシェからは大きな批判に晒されていた(Shulman, 2017)。

現在、この当初の”アレルギー”概念への回帰の動きがある。

天然痘ウイルスなどの、感染によって直接病変を引き起こすものにまで一般化してよいものではないとの批判もあるが(Silverstein, 2000)、多くの疾患が”免疫抑制”によって”予防”可能である現実(Allison, Beveridge, Cockburn, East, Goodman, Koprowksi, et al., 1972)からして、極めて重要な動きである。

この解釈のズレによって生じる弊害は、まさにこの”免疫”と”過敏症”が連続体であるとの観念が失われることにあり、従ってアレルギー学と免疫学が細分化されている時点で本質を見失っているのだ。

脇道に逸れてしまったが、この現状を放置することで、上述の通り、免疫学は栄養学や生理学、遺伝学と整合性のとれない机上の空論になり果ててしまう。

生体反応の決定因子には当然ながら宿主の栄養状態(Beck et al., 2004)や、遺伝組成(Tan et al., 2001)、環境上の化学物質など、考慮すべき因子が山のようにある。抗原原罪に話を戻せば、「抗体を生成しない」事実を生み出す要因は免疫記憶だけでなく、これらの生活上の因子に責任を求めるべきだと言いたい。

しかし現状としては、マクロファージを中心に免疫細胞の活性にはビタミンDが必要との声がある位だ。他にも世間が大好きな細胞性免疫の活性にはビタミンB12が必要(Tamura et al., 1999)であり、そもそも免疫の活性にはセレン、亜鉛、銅、鉄、ビタミンA、B(6,9,12)、C、D、E、多価不飽和脂肪酸が必須だと発表されている(Calder, 2020)という話は、少なくともTwitter界隈では話題にすら上らない。こうしてみると、免疫と一般的な健康に寄与する(と考えられている) 栄養素に大して違いはないことが伺える。

一方の免疫の阻害要因として、一部のアンチ添加物界隈や松果体を愛するスピ界隈で毛嫌いされるフッ素、特にフッ化ナトリウムは抗体形成を阻害する(Jain & Susheela, 1987)。抗体架橋は水素結合・ジスルフィド結合なのだから、その結合阻害成分が血中を漂っていれば免疫に影響するのは当然だ。
※あくまで一因。NaFだけで全て説明できるとは思わない。

更には別のウイルス感染もまた抗体生成に関与する。一部のウイルス(エプスタインバーウイルス等)は、B細胞に選択的に感染して特定抗原に対する抗体応答の増強/減弱を調整する(Allison, Beveridge, Cockburn, East, Goodman, Koprowski, et al., 1972)為だ。また、麻疹感染で免疫抑制が生じ、抗体記憶がリセットされることは有名である(Mina et al., 2019)。

今回のCOVID-19でも、SARS-CoV2感染後の二次的細菌感染・ウイルス感染などが報告されている(Feldman & Anderson, 2021; Sharifipour et al., 2020)。従って多様なフローラを有する生体内の現象を、ただ一つの病原体・抗原だけに絞って解明するのは不可能に近い。

上述の通り私は抗原原罪という概念に対して批判的・懐疑的である。だが、それはこの現象が起こるか起こらないかの話ではない。そもそも抗原原罪なる概念が実験室場面だけで観測されるものであり、現実の生体内で発生する現象の解釈としては不適当な机上の空論だという考えである。

そして抗原原罪、そして「不適切な抗体」により生じるとされる曖昧極まりないADE(抗体依存性感染増強)なる現象を科学的に否定しない限り、ワクチンという迷信が科学史から退場することはないと考えている。


※以下はただの文献集です。興味ある方は是非ここで投資してください。

ここから先は

3,454字

¥ 200

サポートで生き長らえます。。。!!