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1.歴史と導入

血液が凝固する事実、それは自然な流れで自発的現象とされ、数多の生理学者、医師、化学者がその解明に挑むも、満足な成果を得ていない。その顛末を詳述しようとも、彼等が遺した偏見に満ちた仮説や体系が無益だと詳らかになるのみだろう。これら仮説の中で唯一つ注目に値するものがあり、これは当に近頃の研究者による検討や検証に晒されていないのである。この仮説が着想に至った経緯は極めて興味深い。

有史以前から、流血が直ちに赤味のある、多少の軟性がある有形の塊に変形する現象が知られており、同種の流体の凝固現象に準えて「凝血」と呼ばれた。

18世紀、(ドゥニ・ディドロが編纂した百科事典「血液」の章の補足項目にて)ハラー(Haller)が、血球に関するレーウェンフック(Leuwenhoeck)の誤りを訂正し、血球が血液の赤色部分に限局して存在する本質的成分だと主張し、「恐らく牛乳にも存在する」と述べた。だが氏は、「血球は一定の形状をしており、単純な脂質粒子の集合ではなく…外接 で境界のある固体」だと認識していた。また、初めて血液の自発的凝固現象に(アリストテレスに遡りつつ)理論的基盤を構築した:

「アリストテレスを中心に古代の学者は、血液の成分が線維質であり、これが血液の凝固性物質の根源だと考えていた。この線維質は、血液を放置すると必ず形成する凝血塊に確認され、事実として微細な膜状の網目構造をしており、液体部分から分離すると容易に目視できる。」

しかしハラーは、線維質が実際的な血液の成分とは認めなかった。「著者が、この線維質が血球と並んで血液中に存在するものと読者に理解を要請するならば、確実に誤りである。」と述べた。自身の見解の根拠となる数学者ボレリ(Borelli)を引用している。ボレリは「線維質が血液の成分である説を否定した初の人物であり、またブールハーウェ(Boerhaave) や、その一派となる偉人達も同様である。」更に、

「特定の条件下で線維質と破片が血液中に誕生するのだと著者が述べるならば、この点で異論はないものの、しかし線維質と破片は、血液の赤色部分よりもリンパ液中に誕生するように観測される。」

端的に、ハラー曰く、血液には、リンパ液なる液体中の球状物質を除いては、固形かつ有形の成分は存在しない。この球状物質を可視化する最良の方法として、流動性と色彩を高める特定の塩を添加するよう推奨した。「あらゆる塩の中で血液に最良の色彩を付与するのは硝石(KNO3)である」。

リンパ液から凝血塊の線維質を抽出したハラーは、氏に続いて血液中に液体と懸濁状態の球状物質を観測した学者達の先駆けとなった。それまでこの液体は、全成分が完全な溶液状態だとされていた。

凝血の形成条件、その血管に沿った形状、収縮の進行、黄色の漿液(当時血清と呼ばれた)の排泄など、全てが慎重な好奇心で観察された。収縮後の血液を水で洗浄して色素を落とすと白色の物質が生じ、これは血液の線維部と呼ばれ、化学用語の改変でフィブリン(fibrin)と命名された。最終的にフィブリンは凝固直前の血液からホイッピングで分離された。偉大なドイツの生理学者J.ミュラー(Muller)はハラーに賛同し、こう述べた。

「血液の液体部分(liquor/ lympha sanguinis(リンパ・サングイニス)とは、凝固前に存在する無色の液体を指し、その液体中を血球が浮遊している…その液体には血液中の全成分が完全に溶解している。凝固の瞬間に液体は溶解状態のフィブリンを自身から分離する。」

顕微鏡で蛙の血液を観察し、その研究で「アルブミンの他にも、血液の液体部分にフィブリンが溶解状態にあると証明された」と考えた。H.H.シュルツ(Shultze)が、ハラーの言うリンパ液に”血漿(plasma)”と命名し、同じ液体をミュラーはサングイニス液と呼んだ。

J.ミュラーの結論がより慎重を期していたのは、既出の考察に対する反論・矛盾となる為であった。W.ヒューソン(Hewson)が二つの見解を発表した。前者はミュラーに賛同する説、後者は独自の説であった。前者曰く、フィブリンは血液に溶液状態で存在する。後者曰く、微細な粒子状に懸濁して存在する。そして球状物質はフィブリンを内包しないものとした。

ミルン・エドワード(Milne-Edwads)はヒューソンの後者の見解を採用し、フィブリンは血液に溶液状態でなく微細な粒子状の固体として分裂状態にあり、出血の後に放置すると、凝血の線維質形成やホイッピングの際に統合されてフィブリンとなると主張した。デュマ(Dumas)は、ジュネーブのプレヴォー(Prevost)との共同研究により、初めは凝血の解釈にフィブリンの球状物質起源を採用し、後に限定的にミルン・エドワードの見解を採用した。

以上の天才達の見解の解説は重要である。デュマは述べる。

「フィブリンの有するどの特質も血液中での存在様式を説明する手段になり得ない。既知の処理法でこの状態に還元することも叶わない。事実として血液には、液体と自然凝固性の両方のフィブリンがある。全ての事実から、血液中のフィブリンは溶液状態ではなく微細な分裂状態として存在し、それは液体が流動的である限り維持されるが、静止状態になると、フィブリン粒子の線維状かつ膜状の網目構造に統合する性質の故に突如として停止するという考想に帰結する。」

後に氏はこの見解を以下のように修正した。

「血液には自然凝固性のフィブリンが無数に存在するか、或いは極めて溶液に近しい状態で存在し、実際に溶解しているように見える。独特の流動的状態であり、水と混合した澱粉が溶液中で示す性質に類似する。」

しかし、血液中のフィブリンの特殊な状態に関するヒューソン、ミルン・エドワード、そして際立つデュマの見解も、後に分かる通り、真実に切迫して多いに検討されるも、次第に注目を失った。生理学者は徐々に、J.ミュラーとシュルツが採用したハラーの見解に回帰した。”血漿”がリンパ液の名に代わり、球状物質を除く全成分が血液中に完全な溶液状態とされた。遂には、フィブリンは溶液状態ですら存在しないと信じるようになった。

即ち、血液凝固の”corps du delit(死体)"と呼ばれたフィブリンは、まずはアルブミンと同一物質だと想像され、更には以下のように続いた:

  • 血液中のアルブミンはアルカリ成分と結合したフィブリンに他ならず、その非結合部位だけが凝固可能である

  • 血漿にはプラスミンが存在し、血管外に漏出すると自然分解により、有形のフィブリンと、メタルブミン(metalbumin)なるフィブリンの溶解態へと変形する

  • フィブリンは血液、或いは血漿には存在しないが、各々フィブリノーゲンとフィブリノプラスチンなる成分が溶液状態で存在し、血管外では発酵の影響を受け、アルカリ成分等を除去しつつフィブリンが生成される

テナール(Thenard)を支持する化学者はフィブリンを動物質の分離物と見做し、即ちシェヴルール(Chevreul)の定義する処の”近成分(proximate principle)”である。血液凝固現象とその原因に関心を寄せるグレナール(Glenard)はフィブリンを主題に以下の記述をしている。

「科学はフィブリン、つまり『凝血のCorps du delit』の組成を未だ確立できていない。フィブリンはアルブミン由来か、その段階の一つと捉えるべきか不明である。この物質の定義は化学者達の間で異なる。余剰成分か排泄物か、栄養成分か有機廃棄物かも不明である。」

仮説に仮説が蓄積する一世紀の後に、ハラーが遺した問題に我々が回帰したのは、従って当然の帰結である。ミルン・エドワードやデュマの構想、凡そその検証と思しき研究は等閑視され、フィブリンの本質も起源も理解せぬ科学が、凝血現象の解釈をオカルトに求めても驚くに値しない。

著明な英国の外科医ハンター(Hunter)はこのように考想した。

「血液は印象で凝固する。即ち、血管外への漏出後の静止状態ではその流動性は状況にそぐわず、また最早必要性もなく、固形性という不可欠の習慣に応じて凝固する。」

また、こう述べている。

「血液は自身の内なる力を秘めており、要求の刺激に応える形で作用する。その要求とは、自身の置かれた状況から生じるのである。」

ハンターの記述はハラーと同時代である。月日が経ち、ヘンレ(Henle)が、循環系停止直後の血液凝固の原因は不明であることを前提に、「凝血は屡々、生命の最期の活動、即ち血液の死と考えられている。」と言った。これはヘンレ自身の見解ではないが、近年再浮上し、血漿なる用語で表される体系に符号した。端的に、血液凝固に関する刺激的な観察に満ちた作品から以下の命題を集約可能である。

  • 血液にはそれ自体の生命が備わる

  • 凝血は血液の死と同義である

  • 自然凝固により、血漿はその主たる特質である生活を失い、組織的体液の状態から近成分の不活性な凝集体となる

  • 故に凝血とは血漿の分解である

  • 異物との接触による流血という致命的影響に対し、数分間の格闘を繰り広げることがこの組織の本質である

ここで先に進む前に、言葉の仮面の下にある実体を探らなければならない。上記の命題の著者が、ハンターのように、血液自然凝固現象の説明に、「印象」や「固形性の不可欠な習慣」、「要求の刺激」を持ち出さなかったのは事実であるが、著者は”オカルト”の浅瀬を免れたのだろうか?生体由来の血液が生きているのは真実である。しかし、血液がその死故に凝固するというのはオカルト的な原因による「説明」ではないだろうか?組織的体液である血漿の主たる特質が生存にあるとすれば、その組織が接触という致命的影響と闘争し、生命が喪失するというのもまたオカルト的原因による「説明」ではないか?

また、血漿は、仮説上も定義上も完全な溶液状態の近成分で構成される水溶液であり、自然凝固がその分解だとするのはオカルト的原因の説明ではないか?そしてオカルト原因で現象を説明する価値とは何か?ニュートン(Newton)の回答はこうだ。

「諸々の事物が特定のオカルト的性質を備え、一定の作用力で以て感覚的効果を生み出し得るというのは、全く何も説明していないも同義である。」

それでも尚、1875年のグレナールが、この現象の説明を求めて解剖学、生理学、化学以外の領域に走るほどの窮地にあったとすれば、それは当時の科学が微々たる満足も提供しなかった為である。同年のAcademy of Sciences紀要には、牛乳の凝固現象を血液凝固に喩えた解釈が見受けられる。

更に年月を経て、フレイ(Frey)氏が、ミュラーとハラーの研究に戻ってこう述べた。

「解剖学的見地では、血液は、無色透明の液体である血漿、或いはサングイニス液と、そこに2種類の細胞性成分、即ち有色細胞の赤血球と無色細胞のリンパ球が浮遊している。」

そしてフィブリンに関してこう述べる。

「凝血前の体液に如何なる形態で存在するかは不明であり、一般にアルブミンの誘導体と考えられている。」

要するに、赤血球と白血球が血液中唯一の有形成分であり、ミュラーがサングイニス液での証明を考想した如く血漿にも全成分が完全な溶液状態で保存され、この成分は有機的観点からアルブミンに還元されることになる。完全にそう確信するフレイは、

「生体の栄養液に生成される急速な栄養転換物が、生前のフィブリン形成を阻害する。」

これは即ち、流血の瞬間にフィブリンは存在しないことを意味する。

ここで、ハラーやミュラーに、血液のリンパ液が備える生得の性質に関しては何ら偏見もないことが分かる。一方、血漿を”サングイニス液”と同義語とすると問題に偏見が介入することになる。同義語としての血漿は有機的構造体や生命の特殊な構想に紐づいており、「生命は物質の特殊な活動形式である」と主張する体系に準じることになる。これはビシャ(Bichat)の教義に著しく乖離し、ビシャ曰く、「生命は物質に直接付随せず、その形態と構造が規定された解剖学的元素に付随する。」この点に関して、血液自然凝固現象の解剖学的、生理学的説明で詳述しよう。

しかし、グレナールとフレイが論文を発表する数年前に、私とエストールは、血液中に二種類の球状物質の他に第三の有形成分の存在を証明し、その形態と特質を正確に特定し、血液凝固現象を一切のオカルト要素なく説明することを可能にした。グレナールは自身の論文で我々の研究に言及した。

「今後の執筆で詳述することになろうことから、ベシャンとエストールの”微小発酵体理論”と題した章は割愛する。」

グレナールが、論文から上述の章を割愛した経緯をどこかで発表したかは定かでない。私としては、エストールと一緒に始めた仕事を継続し、完成させることができなかったという大きな悲しみがあった。1876年の離別後、エストールが早すぎる死を迎えたことで、私は高名で献身的な戦友を失ったのだ。私は独力でこの問題の完全解決に挑まねばならなかった。私の最新の研究は、フリーデル氏がソルボンヌに提供してくれた研究室で行われている。

私の研究成果の一部は、方々の学術誌に掲載された備忘録に残してきた。1895年、ボルドーで開催されたフランス科学振興協会の大会にてその最新版が提出された。しかし、数点、特にこの研究の極致であり要となる点は、本書の登場まで未発表のままであった。

血液中の第三の有形成分は血液自然凝固現象の研究中に発見されたのではない。エストールと私は流行りの構想に従い、血液凝固現象を瀉血後のフィブリン生成に充当して凝血形成の説明を試みた。フィブリンの研究を血液凝固の視点から再開した時、乳汁凝固問題は既成の構想とは無関係な意味で解決済みであり、そしてこれはグレナールの論文発表より随分遡る。氏はこう述べている。

「凝血の第一原因を知らぬだけでなく、その間接要因すら不明である。この血液の状態変化が物理的・化学的現象であるか、結晶化か沈降化であるかも不明である。」

私が大いに誤っていなければ、これは著者がハラーや、後のミュラー、ヒューソン、ミルン・エドワード、デュマらが確信していた構想、即ち、凝血形成はフィブリンがその直接・間接原因とする説にも疑念があったことを意味する。凝血が血液の状態変化などという発言からして、著者は血液の解剖学的・化学的組成を、乳汁のそれ以上に把握していないことを証明している。

1869年の備忘録には、血液中の微小発酵体がフィブリン生成の第一原因であり、凝血の間接原因だと明示されている。最新研究では更に、血液中の微小発酵体およびフィブリンの存在量が相関関係にあり、一方が他方の前提となることを証明した。デュマが発展させたミルン・エドワードの構想を完成させながら、その検証の為にこの相関関係を説明するだけでよかったのだ。

これら新たな研究は、有機物、近成分全般、天然の動植物質等々、自発性と謳われたそれら物質自身の変化の原因究明に際し、新旧の他領域の研究と統合することとなった。即ち:

  1. 発酵素の起源問題と発酵現象の生理学理論

  2. 発酵体の自然発生説の否定的解決

  3. 呼吸中に生じる生体の尿素の起源

  4. アルブミノイド物質の化学的組成、並びにその分子構造の正確な特異性の証明

  5. ビシャの教義に準じる真の有機的構造体理論

すると、血液自然凝固問題の完全解決には、極めて解決が困難な難題を先んじて解決する必要性があると判明する。ここに時系列で列挙する。

1.凝血の分離、血液のホイッピング、各フィブリンの性質
2.アルブミノイド近成分の真の特異性
3.流血の瞬間における血液中フィブリンの状態
4.赤血球の真の構造
5.流血の瞬間における血液の真の組成
6.流血が凝固する真の生化学的意味

以上は後の章の見出しとなる。この後の展開により、血液自然凝固現象が、血液自体の凝固ではなく、その第三の解剖学的元素による凝固であることが理解可能となる。

従って、凝血なる不適切な命名の現象が、血球の破壊や更には赤色色素の変化等が伴う、血液の完全な変性の第一段階に過ぎず、そして更には、この自然変性が至極有触れた現象、即ち、生死問わず動物から抽出される固形状、体液状の動物質の全てが起こす自然変性の特殊例だと明確になる。この変性性は、生理学的に自然発生的であり、不可欠であり、特殊な発酵現象の結果として時に細胞の解剖学的元素自体の破壊をも引き起こす。その現象は、その物質に内在する微小発酵体がその主たる原因である。

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