中世ヨーロッパの城

 古代ヨーロッパにおける防衛施設は、城塞に囲まれた要塞都市や柵で囲まれた砦や野営地の事であるが、都市や村ではなく領主だけを守る為に作られたのが中世の城の始まりの様である。日本で言うと豪族居館に近いだろう。日本の城は、要地防衛の砦の延長にあるためヨーロッパの城とは全く異なる代物になったのである。

 城は10世紀ぐらいに作られはじまりモット・アンド・ベイリーと言う、環濠集落の劣化版だ。土と木で出来ており、平地に作られたベイリー(二の丸に相当)とその後ろに小高い丘モット(本丸に相当)を作り柵や濠で囲った。ベイリーには、従者の住まいや厩舎などが置かれた。一方領主が住むのは丘(モット)の上に立てられた小さな木造の建物で、これがキープと呼ばれるようになる。

Lordoftheloch, CC0, via Wikimedia Commons
10世紀頃の西洋の城 モット・アンド・ベイリー

 キープを直訳すると天守になるかも知れないが天守と違う。日本の天守には通常人は住まないからである(安土城は例外だ)そもそも日本の天守は物見櫓を大きくしたものである。城主の居住空間は本丸御殿だったり、城外だったりしたわけである。それに対してキープは最初から生活空間だったのである。このキープが狭くて住むには適さないがそこに住んでいたと訳である。

 モット・アンド・ベイリー形式の城は、10世紀頃ノルマン人が最初ノルマンディーにそれからイングランド、アンジュー領持ち込んだものとされている。11世紀にドイツに広がったようである。そうすると中世前期の5-9世紀の西欧に城なるものは存在しないらしい。ゲルマン時代は集落を柵で覆い、周辺を荒れ地にする方式の防御機構だったのだろうか。恐らくノルマン人が現地人の反乱から防衛するために建てた城なのであろう。つまり、モット・アンド・ベイリーで対処するべき敵は他所から来るのでは無く地元の農民や隣村の領主だったのだろう。

 モット・アンド・ベイリーは簡単な構造の城のため20日もあれば作れたと言う。土を掘って、丘を作り(もしくは天然もしくは人工の丘をそのまま利用し)、柵を張り巡らせただけだ。ノルマン人が占領地を支配する拠点にするには十分だったのだろう。また城に居住している人数が極めて少なく、その少ない人数で持ちこたえる必要があったので、このような構造になったと思われる。

 そもそもこの時代は、中世の騎士も貴族も山賊と変わりが無く、騎士を誘拐して身代金を取る商売が流行っていた時代である。そして掠われた騎士は、身代金で破産することが頻繁に起きていた様である。そのため騎士達は
誘拐されない様に普段から安全な所に籠もる必要があったのだ。ドイツにモット・アンド・ベイリーが広がったのはこの事情によるものだろうか?

 モットは3-30mほどの高さがあったらしいが、大半は5m以下らしい。その上に建てるのキープの高さは5mぐらいだったらしい、高床式倉庫の劣化版みたいなものらしい。キープは石造りが導入されると高くなっていく。また地下室に牢獄が作られたようである。

 ただこれらの城は痕跡しかない。木造建築は概ね朽ちてしまうか、石造りに変えられたので残っていないからである。

 11世紀から12世紀頃にかけて石造りの城が建てられるようになるが地域によりそれはバラバラである。これらの技術は、十字軍がアラブやビザンツから持ち帰ったものであり、ぶっちゃけアラブやビザンツ様式のパクリである。これらの城は少ない兵士で効率良く城を守る様に設計してあった。そのため、この時代から徐々に城全体の防御力が高まっていきキープが重要でなくなってくる。そうなるとモット・アンド・ベイリー方式は廃れ城壁で囲んだ城が主流になる。そして城壁の間に建てた塔が主要な防御機構になったのである。

 ところでこの時代、騎士階級は没落していくので石造りの城を作っていたのはほとんど大領主であろう。そもそも石造りの城は資金と時間に余裕が無いと作れないのだ。

 さてこのキープがどれだけ貧相だったかと言うと、大広間だけがあり、ついたての後ろが城主の寝室である。プライベートもへったくれも無い世界だったのである。なお、城主も下人も全員、大広間で食事を取っていたらしい。高層化されるまえのキープは大広間の真ん中に囲炉裏があり、そこが調理場兼食堂でもあった様である。

 そのため城主の寝室なるものは13世紀頃にキープの高層化や巨大化が始まり居住面積に余裕が出来てから作られたものなのである。また高層化が始まるとキープの中央に囲炉裏が置けなくなり、壁の隅に暖炉を置くようになるのである。

 しかしキープに於ける最大の問題はトイレ。突き出しをつくってそこからポットンしていたらしい。しかし、その穴から攻め込まれて落城したケースもあるとか。

 それはともかく、金のある大領主は、大きな城壁で囲んだ城を作るようになる。そうして外側の防御を高めると中庭に面積が取れるようになり、大きなキープが建てられる様になったようである。これが12-14世紀頃に作られた城の様である。城の面積が自体が大きくなり構造が複雑になると防御機構としてのキープの重要性が薄れ、居住性優先になっていくようである。

 ちなみに少ないが城を中心とした城下町が形成されるケースがあった。ニューカッスルなどがそうらしい。しかし、一般的にヨーロッパの城は、既にある都市や集落の近くに作られることが多いので、城を中心に町が作られるケースは少なかった様である。

 より複雑な造型の大きなキープが作られたのは14-16世紀頃であり中世の城と呼んでいる城は概ねこの時期に建てられたものである。17世紀になると中央集権化で必要が無くなった城の破却が始まり、城自体が衰退していくわけである。

#エッセイ #歴史 #中世ヨーロッパ


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