妄想邪馬台国(4) 鉄と青銅でみてみる
鉄と青銅でみる邪馬台国。
日本における最古の鉄器は紀元前5世紀とされ(一説に紀元前10世紀)、この鉄器は戦国燕から輸入されたものと想定されている。
http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k298/kodaishi298.pdf
時代は下り、邪馬台国の時代、倭人は鉄は、辰韓・弁韓から取り寄せていたようだ。
三国史魏書第三十 烏丸鮮卑東夷伝辰韓条
國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
鉄が出て、韓、濊、倭がこれを取る。市での買い物には鉄を銭の様に使う。
任那は鉄を腐るほど量産していたのだろう。恐らく、戦国燕の難民→衛満朝鮮→三韓と流れてきて、鉄鉱石の産地に住み着いていた。しかし、鉄を専業にするには食糧は鉄と交換で調達しなければならない。鉄を全部買い上げる素敵国家もないので交易は不可欠だ。
邪馬台国は、この鉄(任那の鉄)を輸入していた。現地製造も行っていたかもしれない。
この時代の鉄器の分布図だが、
近畿には鉄器が、ほとんど発掘されていない。
この時代の倭人三十余国は、鉄を求めて通交していたと考えるのが合理的なので邪馬台国は、九州か出雲か北陸方面だろう。
次に青銅を見る。歴史区分に石器時代、青銅器時代、鉄器時代と言う分類があるが、腐るほど鉄を生産している地域が既に近くにあったら青銅の扱いはどうなるだろうか?
実は、鉄より高い青銅をわざわざ輸入して使う理由がない。青銅は銅、スズ、鉛の合金だ。問題は、スズの偏在性にある。東アジアに於けるスズの供給地は古くは雲南あたりで、後にマレー半島が加わる。古代メソポタミアもイングランドのコーンウォールからスズを輸入していた様だ(初期はイラン高原から錫を輸入していたとされる)
戦国燕や春秋呉越で製鉄が発達したのはスズが手に入りにくいからだと言われる。おそらく秦と楚がスズを独占していたのだろう。
そのスズが日本で発見されるのは7-8世紀と言われる。奈良時代には湯水の様に青銅を消費した大仏を作っているが、弥生時代の青銅は鉄より高い。鉄は近くの鉄鉱石が使えても、青銅を作るにはスズを遠くから運んでこないとならない。どうしても高くなる。
ゆえに日本は、青銅器時代をすっ飛ばして鉄器時代に突入したと考えるのが無難だろう(鉄器時代の青銅の使い方と言えば、鏡と鐘と銅像だ)
青銅器は弥生時代の近畿にも来ており、つまり近畿はさほど鉄器を必要としなかったから輸入しなかったと考えるのが一番合理的だ(発見されていないだけかも知れないが)
次回、伊都国と水行の謎。
ここから完全に妄想
投馬はイズモ。邪馬台国はコシにあったと思われる(そもそもコシはヤマト側からみた名前で本来は別の名前だろう)。そして邪馬台国は日本海を貿易圏とした連合国家を構成していた。目的は大陸の貿易の一元化で、邪馬台国の出先は伊都国にあり、この伊都国は弁韓人か辰韓人の国かもしれない(役職が日本語っぽくない)邪馬台国より東にある国の多くは東山道沿いにある国で。邪馬台国を中継して物資(主に鉄器)が運ばれたのだろう。
邪馬台国と対立していた狗奴国は、タニハ国かコシにあったもう一つの大国(タニハ国と考える理由は後述)
しかし、台与の時代以降に邪馬台国は衰退する。北九州と出雲の連合は解体した。
一方でヤマトは鉄をさほど必要としていなかった。
鉄を必要しないまま大国化したヤマトは、鉄を多く武具に回すことが可能だった。そして崇神天皇の時代には、越と出雲を領土に取り込んでいった。しかし、九州北部は、まだ勢力圏外だった。
九州北部には強力な豪族が乱立し、ヤマトに対抗していたと思われる。ヤマトは宇佐の豪族と手を組み阿蘇方面の征服には成功したが、隼人の住む九州南部と九州北部にはまだ手をだせなかった。
九州北部がヤマト勢力圏に入るのは早くても景行天皇の時代の様だ。しかもかなり後の時代まで土蜘蛛と呼ばれる土着勢力が残っている。しかも女王が多い。
崇峻天皇時代には出雲は勢力圏に取り込んでいたが、タニハ(丹波、丹後、但馬)国はまだ独立していた。このタニハ国を取り込む為に送り出されたのが四道将軍の一人だ。この四道将軍はヤマトの国家拡大仮定を仮託したものだろう。
そして丹波方面の将軍は、古事記では丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはひこたたすみちのうしのみこ)と言ういかにも後付け感満載の名前だ。タニハを正しくみちびく皇子様。日本書紀でも丹波道主命。要するにタニハ国絶対滅ぼすマンだ。
※ そしてヤマトに滅ぼされたタニハ国の流民が新羅方面に流れて鶏林と言う国を建てた。
一方、西道の将軍は吉備津彦(古事記では存在すらない)。本気度がまる違うし、吉備は既に征服していた可能性がある(古事記には西道に関しては書かれていない。恐らく日本書紀は四天王は四人いないと成立しないと思い無理矢理四人にしたのだろう)
四道将軍の東方方面軍は、北陸道と東海道を下っているが東山道に関しては忘れ去られている。東海道はヤマトタケル伝説に重ねて出てくるので東海道ではなく東山道だった可能性がある。東方方面は、大彦命と建沼河別命で特別な名付けをしていない。
そしてこの四道将軍の進路は旧邪馬台国の勢力圏かもしれない。
倭の五王は鉄利権を失いたくない北九州の豪族(かつて土蜘蛛と呼ばれていた)がやっていたのだろう。これでは記紀といくら睨めっこしても一致しない。
ちなみ半島の領土を失った後の6世紀頃から国内で製鉄施設が大量に発見される様になる。この理由は経済的合理性だろう。任那から輸入した方が安い時代は輸入だけでまかなっていた。新羅の支配下に入ると安く輸入出来なくなったので国産に切り替えた。利権を失った北九州の豪族もうなずく以外選択肢がない。任那地域を占領した新羅が鉄の輸出をコントロールしていたと想定出来る形跡は日本書紀(任那の調に関する記述)にもみられる。
そもそも5世紀の任那の急激な弱体化は鉄の枯渇ではないだろうか?製鉄は森林資源を消耗する。その森林資源を消費しつくしたのだ。
蔚山と梁山(勿禁)で鉄が採れたみたいな感じ。
日本には良い鉄鉱石の産地が少なく、それもすぐに枯れてしまうほど生産量が少ない。そのため砂鉄を利用した製鉄に切り替わっていく。製鉄の為に鉄鉱石を探すより輸入した方がお手軽だったのだろう。
似たような例は江戸時代にもある。江戸時代中頃まで生糸は輸入に依存していた。中国産生糸の品質が良く安かった為であり、養蚕技術が無いからでは無い(養蚕は魏志倭人伝にも出てきており技術自体は古くからある)。国内の養蚕業は廃れ、銀が大量に流出していた。銀の流出に困っていた江戸幕府は生糸の輸入を制限し、国産化を推し進める。そのうち国内での蚕の品種改良や分業化が進み生糸の自給に成功する。それどころか江戸末期から明治初期最大の輸出品になっていた。
別にイギリスの例もある。イギリスはパドル法が確立するまで、国内で鉄を生産するより輸入した方が品質が良いのでスウェーデンから輸入していた。これはスウェーデンで採れる鉄鉱石の品質の良さもあるが、イギリスは森林資源が少なく石炭以前は製鉄に向いていなかった。
邪馬台国も倭の五王もヤマトとは直接関係無いため、イズモやヒムカの様に神話を取り込む必要もなかった。
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