朝鮮王朝実録 総序(3) 成宗 李椿(孛顔帖木兒)

 成宗 李椿こと孛顔帖木兒ブヤンテムルはモンゴル名を持っており、李成桂の祖父にあたる。この人物は、実在した可能性が高そうである。ここからなろう系エピソードだらけになる。また、後継者の混乱が李子春が高麗に投降した原因の一つかもしれない。

 この翻訳ね。翻訳自体より注記に時間がかかるのよ。下書きの状態で何度もチェックを繰り返しているうちに一ヶ月。

成宗 李椿(孛顔帖木兒)

成宗 大德四年十月, 宣授承仕郞, 管領雙城等處高麗軍民、達魯花赤。

 元成宗(テムル=ハン) 大徳四(1300)年十月, 勅により承仕郞*1を授りダルガチとして雙城などの高麗軍民を管領した。

*1 承仕郞は李氏朝鮮に見られる役職。従八品。ただし勅は元から来ている。

某年九月十日, 翼祖薨, 葬于安邊府之瑞谷縣 奉龍驛北洞, 卽智陵。

 とある年の9月10日、李行里(翼祖)は亡くなった*2。安辺府瑞谷県奉龍駅北洞に葬られてた。智陵のことである。

*2 翼祖 李行里の死去年だけが不明なっている。儒教的には祭祀が出来なくなるので考えにくい。血縁関係に無かったと考えるべきだろうか?

度祖諱椿, 小字善來, 蒙古諱孛顔帖木兒, 受宣命襲職。

 度祖は李椿といい幼名を善来と言う。モンゴル名を孛顔帖木兒ブヤンテムル*3と言う。勅命を受け、その職を継いだ。

*3 ブヤンテムルは、モンゴル語で《賢い鉄》の意味

 配敬妃 朴氏, 斡東百戶贈門下侍中諱光之女。 生二男, 長曰子興, 蒙古名塔思不花, 次卽我桓祖。 朴氏卒後, 移居和州, 娶趙氏, 雙城摠管之女。 生二男三女, 長完者不花, 次那海。

 敬妃朴氏、斡東百戸、贈門下侍中の朴光の娘と結婚した。二人の男子が生まれ、長安は子興と言い、モンゴル名を塔思不花タシュ・ブカ*4と言う、次男は桓祖(李子春こと吾魯思不花ウルス・ブカ*5)だ。
 朴氏が亡くなったあと、和州に居を移し、雙城摠管*6の娘趙氏を娶った。二男三女を生み、長男を完者不花オルジェイ・ブカ*7と言い、次男を那海ノガイ*8と言う。

*4 塔思不花はモンゴル語はTas Buqaの音写で《石の雄牛》の意味だろう。
*5  吾魯思不花はモンゴル語のはUrus Buqaの音写で《人々の雄牛》の意味だろう。
*6 当時の雙城摠管の名前は世代的には趙暉(1258年、民を守らない高麗に見切りをつけモンゴル軍に降伏し雙城摠管を世襲した)の子、趙良琪っぽい。諱を消している理由は分からない。孫の趙暾と李子春が元から高麗に寝返る。
*7  完者にはオルジェイ(幸福)の音写例が存在する(奇皇后)のでオルジェイ・ブカとしたモンゴル語で《幸福な雄牛》の意味。
*8 那海はNoqai/Nogaiの音写例があるが意味は不明。

初翼祖以咸州土地平衍沃饒, 斡東之民南來者, 多處之州之歸州、草古臺、王巨山、雲天、松豆等、都連浦、阿赤郞耳等地。 故稱咸州爲斡東逸彦。 【女眞謂民爲逸彦。】 及是, 度祖盡有安邊以北之地, 而移居咸州, 爲近於南來之民, 且便於牧養也。

 初め李行里(翼祖)は咸州の土地が平らで肥沃なので、斡東の民で南に来くる者の多くを歸州、草古臺、王巨山、雲天、松豆などの州や都連浦、阿赤郞耳などにすませた。ふるくは咸州は斡東逸彦イヤン*9と呼ばれていた。《女真で逸彦は民を言う》そのおかげで、孛顔帖木兒ブヤンテムル(度祖)は安辺以北の地を有していた。そのため咸州に居を移した。それは南から来る民に近づくためで、放牧に便利になった。

*9 女真語の音写のルールは不明で実際の音は分からない

度祖朝忠肅王, 王錫賚甚豐, 所以勸忠也。

 孛顔帖木兒ブヤンテムル(度祖)は忠肅王(27代高麗王)に朝した。勤忠をもたせるため王の褒美は甚だしく多かった。*10

*10 高麗王に忠勤したと書いて居るが捏造だろう。孛顔帖木兒の君主は元皇帝であり高麗王ではない。この時代は大ハーンの入れ替わりが激しく、年号も記載されていないので、どの時代かは特定出来ない。

 度祖夢有告之者曰: "我白龍也。 今在某處, 黑龍欲奪我居, 請公救之。" 度祖覺以爲常而不異之。 又夢白龍復來懇請曰: "公何不以我言爲意?" 且告之日。 度祖始異之, 至期, 帶弓矢往觀之, 雲霧晦冥, 有白黑二龍, 方鬪淵中。 度祖射黑龍, 一矢而斃, 沈于淵。 後夢白龍來謝曰: "公之大慶, 將在子孫。"

 度祖の夢でお告げの者が言う。

おれは白龍だ。今、あるところに住んでいる黒龍がおれの住まいに居座っている。おまえおれを救え」

 度祖は、いつも通り目覚めた後、違和感を覚えなかった。また夢に白龍が現れて懇願する。

おまえはなぜおれの言葉の意味がわからぬのか?」

 そして日を告げた。

 度祖は初めて違和感を覚え、その時になると弓矢を帯びていき黒く覆われた雲霧を観ると白い竜と黒い竜が二匹が方々の淵の中で闘っていた。

 度祖が一矢を射ると黒龍は斃れて淵に沈んだ。後に夢に白龍が現れてお礼を言う。

おまえの大きな幸福は、子々孫々と続くだろう」*11

*11 『ブリタニア列王史』における《赤い竜と白い竜》にどことなく似ている気がするが違う。古代中国の女媧伝説とも異なり、五行で、白は西、黒は北を意味し、竜退治は、治水の暗喩している場合があるが、単なるなろう系なので細かい部分は考えて居なさそう。竜退治系のどの類型にも入らないので、神話ではなく唐宋の伝奇小説の影響を受けているだろう。道教的雰囲気を感じる

度祖嘗在行營, 有二鵲集營中大樹。 度祖欲射之, 去樹幾百步, 麾下士咸謂未必中。 遂射之, 二鵲俱落, 有大蛇出, 銜之置於他樹上, 不自食。 時人異之, 爲之稱頌焉。

 度祖はかつて行営にいたとき大樹の中に二羽のカササギが集まり巣造りしていた。度祖はそれを射ようとし、木から数百歩離れたところから家来の兵士に試すようにいうと全員あてる事ができなかった。

 (度祖が)それを射ると二羽のカササギは同時に墜落した*12。そこに大蛇が現れたが、別の樹の上にひっかかり食べる事ができなかった。

 その時、人々はそれを素晴らしいとほめたたえた。

*12 『北史』卷二十二 列傳第十 長孫嵩 長孫道生 長孫肥伝内熾弟晟伝(長孫晟)の一箭双雕の故事を持ってきたみたい【嘗有二雕,飛而爭肉,因以箭兩隻與晟,請射取之。晟馳往,遇雕相玃,遂一發雙貫焉。】

順帝 元統二年甲戌, 度祖患風疾, 欲傳職於塔思不花, 趙氏請以其子完者不花承守。 後至元丁丑, 中書省差官, 來刷庚寅年從來斡東之人, 度祖呈省陳乞, 竟不刷還。

 順帝(トゴン・テムル)*13の元統二(1334)年甲戌、度祖は風疾を患い、塔思不花タシュ・ブカを職を継がせようとしたが、趙氏は、自分の子の完者不花オルジェイ・ブカを守り、つがせるべきだと請うた。

 後に至元丁丑(1337年)に中書省が官を差配し庚寅年(1290年)から従って来た斡東の人をみつけだそうとしたが、度祖は、ねがいをのべたずねた*14が、ついにみつけだせずに帰った。

*13  順帝は明による諡号で、北元の恵帝。元は北京を追い出され、首都を北に移している。朝鮮半島、満州などは、まだ北元の勢力圏にあるが、モンゴルが滅んだことにしたい明朝は歴史を歪曲し、北元の事を韃靼と呼んだ。その歪曲にならったと思われるが、まだ北元の元号を使って居るのは高麗も雙城摠管府も北元の配下だから。

*14 呈省陳乞を訳すのが難しいのでかなり意訳。

至正二年壬午七月二十四日, 度祖薨, 葬于咸興府之禮安部 雲天洞, 卽義陵。 塔思不花備由赴告開元路, 本路照勘, 塔思不花是正室之子, 令塔思不花承襲。 九月, 塔思不花卒, 子咬住幼。 那海以其母趙氏 高麗王族, 與其兄完者不花, 皆爲元尹、正尹, 又(籍)〔藉〕趙摠管之勢, 遂生覬覦之心, 乘其哀疚之中, 竊宣命印信而去。 管內軍民咸怒曰: "趙氏非嫡, 那海安可襲職!" 桓祖謂塔思不花妻朴氏曰: "嫂可自往開元路以辨。" 朴氏, 安邊人得賢之女也。 桓祖與咬住, 從朴氏詣開元, 陳訴本路, 具由以奏。 至正三年癸未正月, 元以趙氏非嫡, 咬住幼弱, 令桓祖權襲, 待咬住成丁而與之, 仍遣使來誅那海。 那海聞之, 懷宣命及印, 匿於遮仁寺, 執而殺之。 完者不花, 領敦寧致仕李枝父也。

 至正二(1342)年壬午七月二十四日、度祖が亡くなり、咸興府の礼安部雲天洞、つまり義陵に葬られた。

 塔思不花タシュ・ブカは、開元路*15の赴告により備えた。本路の調査で塔思不花タシュ・ブカは正室の子だったので塔思不花タシュ・ブカに後を継ぐよう命じた。

 九月、塔思不花タシュ・ブカが亡くなったが、子の咬住ヤジュ*16は幼かった。

 那海ノガイはその母が趙氏が高麗王族*17で、その兄完者不花オルジェイ・ブカは皆元尹、正尹(元官僚、正式な官僚)だった。また、趙摠管の勢力を頼みにし不相応の心が生まれ、その悲痛の中に乗じて、宣命、印、手紙をかすめ去った。

管内の軍民はみんな怒り、

「趙氏の子は嫡子ではない。那海ノガイがなぜ職をつぐのだ!」と言った。

吾魯思不花ウルス・ブカ(桓祖)は塔思不花タシュ・ブカの妻朴氏に言う。

「あによめは、自ら開元路にむかい説明するべきだ」

朴氏は、安辺(江原道安辺郡)の人で朴得賢の娘である。

吾魯思不花ウルス・ブカ(桓祖)と咬住ヤジュは、朴氏が開元に向かうのに従い、本路で陳訴し、その理由を上奏した。

至正三(1343)年癸未正月、元以趙氏は嫡子ではなく、咬住は幼弱なので、吾魯思不花ウルス・ブカ(桓祖)が後を継ぐように命令がでた。咬住ヤジュが成長するの待って、これを継ぐようにし、かさねて遣使が那海ノガイを誅しに来た。那海ノガイこれを聞き、宣命と印を懐に入れ、遮仁寺に匿われたが、とらえられて殺された。完者不花オルジェイ・ブカは、領敦寧*18を退官した李枝の父である。

*15 遼陽行省開元路。1387年まで北元配下にあった。双城総管府は1356年、趙暾と李子春の内通により高麗により陥落している。
*16 後の永城君李子興。咬住はヤジュと訓じた。意味は不明。咬住と言うモンゴル名自体は元史・明史に頻繁に出てくる。
*17 高麗王族は、王姓なのでどういう意図で王族としたか不明。
*18 敦寧府は李朝で王の親族と外戚が在籍する役所があり、その正一品の領事の事。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?