実在のサムライの一途な生き方

(9月8日記)

本書は戦国時代末期、1600年の関ヶ原せきがはらの戦いの前後からの小説です。

主人公は渡辺勘兵衛かんべえ

各地の武将の間で非常に高い評価を受けている「わたり奉公人」でした。渡り奉公人とは、その能力を評価されて、我が家門に抱えたいという声がかかる中、己の能力に見合った待遇を用意してくれるあるじに次々と仕える者を称します。

その能力、多くは戦闘力のことです。他では学問、武芸、経済、商業などなどありますが、勘兵衛は槍の達人でした。


三日月の花
中路啓太
中公文庫
2016年10月発売

皆さん、関ケ原は知っていますね。

1600(慶長けいちょう5)年、9月15日、美濃国みののくに、今の岐阜ぎふ県関ヶ原において、東軍と西軍が、天下分け目の大決戦をしたのです。

東軍は徳川家康を総大将、西軍は毛利輝元もうりてるもとを総大将にして、総勢16万人で争いました。

輝元は「三矢さんしおしえ」で有名な毛利元就もとなりの孫で、豊臣とよとみ秀吉政権の五大老たいろうの一人でした。

関ヶ原の戦いというのは、要は秀吉の死後、豊臣か徳川かの覇権争いのことで、勝った徳川が俄然がぜん、優位となりました。

輝元は格が上なので総大将となっていますが、本当の西軍のリーダーは、石田三成みつなりです。三成は十代の頃から秀吉に仕え、その頭脳と気働きの優秀さによって、秀吉隋一の側近として出世し、秀吉政権の五奉行ぶぎょうの筆頭になりました。

が、人間の器が小さく、かつ己の才を誇る面もあり、諸将、特にいくさを得意としてし上がってきた武断派の武将からは嫌われていたのです。

俗に「才あれど徳なし」の典型的人物でした。官僚タイプなので、教養のない連中を嫌い、見くだしていたわけです。

しかし、戦国の只中ただなかでは、その武断派が大活躍したからこそ、豊臣家はさかえたということも重要なことでした。

秀吉、天下を取ってからは、おかしくなりましたが、それまでは、「人たらし」の「人使い」のうまい人だったので、三成のようなインテリと、加藤清正きよまさ、福島正則まさのり、黒田官兵衛かんべえなどの武断派をたくみに使いこなしていたのです。

ここから先は

4,638字
書評、偉人伝、小説、時事解説、コメント返信などを週に6本投稿します。面白く、タメになるものをお届けすべく、張り切って書いています。

書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?