「できる人」と足並みを揃えることが苦手な僕が行き着いた、自分の価値観を見つめ直す「お釈迦様の遺言」の話
三谷です。今年も宜しくお願いします。
昨年末にこんなnoteを書きました。
実際はもっと言いたいことがあって何千、何万文字になる下書きを量産している内に「これ一つにまとめるの無理やな」と気づき、結論だけ投下して早々に年越しそばをいただいたのが昨年末でした。笑
今回はその下書き群の中から最も中枢的であり、少しだけ長くなりそうなテーマをできるだけまとめて、読みやすくお話します。
何となく周りと足並みが揃わない僕が見つけた、道標のような言葉の話です。
「できる人」に馴染めない僕の努力基準
これを言うとネガティブに捉えられがちなんですが、僕は「稼ぐため」とか「売れるため」とかではなく「楽をするために努力」をしています。
例えば仕事や携わるプロジェクトなんかでも「精神的に楽でおりたい(=納期に追われたくない、でも全員の満足度が高い成果は出したい)から勉強して先回りしとこ」「身体的に楽をしたい(=無駄は省きたい、全部早めに進めたい)から効率良い方法探そ」とか。
そんな受け身のような攻めのような姿勢の僕ですが、その割に昨年はありがたいことに本当にたくさんのご縁や機会に恵まれました。
多くの方々と違うのが「上り詰めるために努力する」という感情というか欲望が薄いこと。
「タワマンに住みたい!」とか「良い車に乗りたい!」とか、全然ないんですよね。そもそもあんまり贅沢に興味が無いし、立場や影響力は後から着いてくるものだと思ってるので、それを目標に努力するのがとても苦手なんです。
そういう話をすると、特に前職の営業マン時代なんかは「向上心が足りない」「上を目指さないくせに楽をしたいなんて一番欲深い」なんて評価を受けることも多かったので、「あ〜多分俺は社会で活躍する”できる人”たちとは合わんのだろうな〜」くらいに思っていたのですが、最近そんな僕のテンションというか、感覚的なところを言語化してくれるような言葉に出逢いました。
「吾唯足知(われただたるをしる)」とは
皆さん「吾唯足知」という言葉をご存じでしょうか。この文字の並びを見て、京都の龍安寺さんを思い浮かべた方はかなりの京都通でしょう。
「吾唯足知(われただたるをしる)」とは、お釈迦様の遺言とも言われている教典「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」に記された、いわゆる「知足」「足るを知る」の考え方です。
ちなみに僕がこの「足るを知る」を初めて知ったのは、大好きな漫画「東京喰種:re 」7巻(集英社)のこのシーン。
そして、「仏遺教経」のなかで「足るを知る」を説明する本文は以下の通りになります。
ぁああああああ読めないいぃ。
すっっっっっっごく要約すると「何でもかんでも欲しがらんでも自分に必要なもんがわかっとったら、それで十分幸せやろがい」みたいな教えです。詳しくは引用元に現代語訳されているのでご一読を。
欧米を中心に拡がる「Good enough.」の視点
「吾唯足知」の視点は、「Good enough.」として海外でも拡がっているそう。
SDGs(持続可能な開発目標)に繋がる思想や、日本的な「MOTTAINAI」の精神など、諸々共通することがあるのでしょう。
世界も感じ始めている。
「そない欲しがらんでも…もう十分ちゃう?」と。
…そしてここで難しいのが、いや待て、と。フリーランス1歳8ヶ月くらいの僕、偉そうに「足るを知る。もう十分。」と語りながら「いや、まだまだ足りてへんやろ」と。
ビジネスにおいては「研鑽」や「ホスピタリティ」を失うと(特に僕みたいなフリーランスなんかは)競争社会では死んでしまうやないか、という矛盾。
そしてこの矛盾に対して咀嚼していく内に、僕は「足るを知る」と同列に並ぶ、ある気づきを得ることができました。
「価値も知る」こと
この、微妙にズレている2つの思考を繋ぐ言葉。それが「価値」でした。
「足る」の前提条件は人それぞれ
これだけ見たら「Aさんは貧しい生活をしているんだな。Bさんはお昼とお茶で1万円か。Aさん可哀想だな。Bさん贅沢だな。」みたいな描写が浮かびませんか。
では少し解像度を上げてみましょう。
「Bさんもっと遊んでいいよ!!Aは反省しろ!!」と、少し見え方が変わりませんか。
何が言いたいかって別にどっちの食事の金額が云々を言いたいんじゃなくて、生きてる前提が違うと「足る(=欲しい、必要な)基準」も違うということ。
だから、数字(=金額・時間・エネルギー)だけを見て自分の「足る」を強要するのはちょっと違うなって思ってます。
「価値」を感じる基準も違う
これは、例えば僕が過ごすカメラ界隈でもよくある話で、僕らにとっては5万円のレンズって安いけど、カメラに興味がない人からしたらレンズだけで5万円って高い。
僕からしたらTシャツに5万円って高いけど、ハイブランドが好きな人からしたらそうでもない。僕は料理のことは全くわからないけど、お皿の上に少し乗ったお肉(5万円)に価値を感じる人もいる。
同じ数字でも価値が違うし、「それ」のために日々を生きている人がいる。
人が何に価値を感じるか、何を持って「足る」とするかはその背景によって変わるし、その価値によって「もう十分」か「足りている」のかは変わる。
自分にとっての「足る」と「価値」の両方に対して改めて思考を巡らせることで、「自分が得て満足できる価値(観)はなんなのか」「自分が人に与えらえる価値(観)はなんなのか」を理解することができ、この目まぐるしく変化する時代においても自分軸を持って生きていけるように思います。
「足るを知る」の先へ
僕にとっての価値は、誰に評価されなくても、夕焼けで赤く染まる空を見て綺麗だと感じ、シャッターを押せること。それでもう十分なこと。
…という結論だけを前回の記事で書きました。笑
誰かに与えられた価値(観)ではなく、それぞれの「足る」と「価値」を持って生きていくことで、それぞれがリスペクトし合えるような社会になればいいですね。
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