宮乃崎桜子『黄金の花咲く 龍神郷』 悲恋譚 坂上田村麻呂と龍神の巫女

 平安時代初期、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が行った蝦夷征討を題材に描かれる時代ファンタジーであります。龍神を身に宿した少女と山の神、土地の青年たちと田村麻呂が織りなす、哀しいドラマの行き着く先は……
 最初の蝦夷討伐から数年後、征夷大将軍に任ぜられ、再度の遠征を命じられた坂上田村麻呂――彼は帝から直々に、遠征の真の目的を聞かされることになります。蝦夷の民が崇める龍神は、実はかつて高天原から追放された邪神であり、天孫を自認する帝としては、許しておくわけにはいかないのだと……
 そのような現実離れした理由での戦に納得がいかぬまま、再び東北に赴いた田村麻呂。彼はそこで銀髪の美しい少女・ユーリャと、彼女と共に暮らす少年・イコル、そしてユーリャに想いを寄せる蝦夷の若長・アテリーと知り合うことになります。
 一目逢ったその日から、互いに強く惹かれ合う田村麻呂とユーリャ。しかし実はユーリャこそは龍神に仕える巫女――赤子の頃に生贄として捧げられ、龍神を身に宿すことで命を与えられた存在であり、さらにイコルはかつて田村麻呂に両親を殺された「山の神」の子だったのであります。
 決して相容れない仲に苦しむ田村麻呂とユーリャ。さらに、蝦夷に理解を示す田村麻呂に反発した部下たちが、イコルが兵を殺したことをきっかけに攻撃を開始し、もはや全面的な戦いは避けられない情勢になるのでした。
 そんな中、アテリーはある策を田村麻呂に提案するのですが……
 歴史の教科書には必ずといってよいほど取り上げられる坂上田村麻呂の蝦夷討伐と、様々なフィクションの題材となってきたアテルイの物語。それほど題材となってきた理由は、この戦が明らかに一方的なものであり、そして降伏したアテルイが、田村麻呂の請願があったにもかかわらず都で斬首されたという悲劇性があるのでしょう。
 本作はその悲劇を踏まえつつ、アテルイ(本作ではアテリー)を脇に据えて、田村麻呂と龍神の巫女の少女の悲恋を描く物語です。
 それにしても悲劇、悲恋――本作の物語と人物配置を見れば、本作を評するにそれ以外の言葉はないと感じます。
 そもそも坂上田村麻呂とアテリーという時点で敵同士であるわけですが、それに加えて田村麻呂はイコルの親の仇。そして何よりも、ユーリャは田村麻呂が帝から滅ぼすよう厳命を受けた龍神の巫女――それも既に龍神と一体化し、龍神の存在がなければ命を維持できない存在なのですから。
 ちなみに本作に登場する龍神は、男神である天照大御神の妻の一人が、嫉妬に狂った末に高天原を妹と共に追放され、妹は八岐大蛇に、姉は九頭龍になったという独自の神話解釈によるもの。かつて日本武尊に討伐されたものの、人には滅ぼせない存在ゆえに、北に逃れたという設定が印象に残ります。
 しかしその狂気も既に去り、死を望んでも死ぬこともできない九頭龍。今はユーリャと共に北に生きるものたちを見守ることが望みだったものが、帝の執念にも似た命により討伐を受けることになった――という、こちらもあまりに哀しい存在であります。
 さらに、サーリャやアテリーと接することで蝦夷と呼ばれる人々が自分たちと変わらぬ人間であることを理解している田村麻呂を除いて、ほとんどの都の人間が蝦夷を対等な存在とみなしていない――その事実が、さらに事態を取り返しのつかないものとしていくのです。
 と、どうあがいても悲劇しかない物語ではあるのですが、しかし本作が描くのは、そんな悲劇を前に絶望するのではなく、自分たちに出来ることを――愛する人々のために、文字通り命を賭けてまで行おうとする人の強さであります。
 その試みがうまくいくとは限らない。何度試みても裏切られるかもしれない。それでも――それでもよりよい未来のために戦い続ける。そんな人々を描く本作は、確かに悲劇ではあるものの、決して読後感は悪くありません。
 ちなみに本作の田村麻呂は、都人としては例外的に蝦夷に理解の深い人物ではあるのですが、しかし結局は都人ゆえか状況判断が甘く、そのために悲劇を生むという人物として描かれています。
 しかし、そんな超人的な英雄ではない、欠点もある人間として描かれる田村麻呂像は、やはり悩み苦しみながらも前に進もうとする人々を描く、本作に相応しいものであると感じられます。
(とはいえ、都に妻子がいるにもかかわらずユーリャに求愛するのは、悪い意味で都人的ではあるのですが……)


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