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MV「お勉強しといてよ」、反復されるメロディ=再上映からの抵抗と楽曲というシステムのメタ化。

MV「お勉強しといてよ」は、5月14日に公開されたずっと真夜中でいいのにの新曲です。この曲のMVが最強で、曲はもちろん良いのですが、楽曲の構成そのものをMVの物語として取り込んだところが最高にクールだったので、こういった形で取り上げさせていただきました。ちなみディレクター絵コンテ原画などなど、MV周りはすべてはなぶし(@hanabushi_)さんという人の作、最強です。

MVについて、そんなこと分かってるよ、もしくは曲こそ聞けと言う人には冗長かもしれませんが、ちょっと込み入ったこの楽曲に新たな見方を与えられたらな、と思っています。とりあえずまずは聞きましょう。

またこの記事では、このMVを”考察”していますが、これが正しい見方だ!と提示しているわけではなく、あくまで一つの見方として共有しています。私はそれぞれに思う作品像が作品だ、という立場であることを予め付しておきます。

メロディの反復

邦楽の多くは定式化されていて、イントロ→1番(AメロBメロサビ)→2番(同)→Cメロ→大サビ→アウトロとなることが多い。売れ線のJ-popに限らず、邦ロックやアニソンなど多くがこれに当てはまります。

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もちろん邦ロックとアニソンの狭間に位置するようなアーティスト・ずっと真夜中でいいのにもこの例にもれず。楽曲を聞く人々の間には、知らず識らずのうちのこの共通認識を予め持っていると言えます。MV「お勉強しといてよ」は、まずその皆が持っている共通認識を逆手に取ったストーリーテリングを展開しているのがすごい。

サビの盛り上がりを経て1番を終えた歌は、間奏を挟んで2番、歌詞の違う同じメロディを繰り返します。しかしこのMVの特異なのは、作中の人物がその事実、「これは繰り返されている」という点に気づいてしまうところ。私たちにとって自明であるはずの、「1番のあとに同じ2番が来る」。この私たち、第三の視点が持つはずの共通の認識、その存在に楽曲の中にいるはずの少女が気付いてしまうのです。

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再上映からの抵抗

これは繰り返されている。作品であって私の意思ではないと悟った少女は、その再上映からの反抗を始める。考えてみるとこのMV全体が「作品」であるということが強く出ています。動画全体で16:9のアスペクト比なのに対して、4:3で表現される世界であったり、日常っぽい映像、ポスター、ゲーム画面や特撮風の白黒動画など。ザッピングのように様々な作品世界に飛んで。それらの絵はそれぞれにオマージュが多くて素晴らしいのですが、いずれにせよ意図されて作られた作品世界の中に彼女は存在する。それが、(この映像そのものが作品であるにもかかわらず)ここで明示されています。

特にゲームに関してはオマージュ元のUNDERTALEも、モチーフが「これがゲームであるということ」であり、示唆的。1番から2番の間の間奏では、これまでに様々な結末が存在したこと(ループ)をほのめかされる。楽曲っていう一回性(一本道)の物語で、すでにこの世界はループを繰り返しているっていう事実を数カットで読み取らせようとするの、高度すぎるでしょう…。これがサブカルの表現で一般化しだしたのは「まどマギ」以降、辺りでしょうか。

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2番でこれが再上映の繰り返しであることに気づいた少女は、展開から逸脱し抵抗を始めますが、この企みは現れた手によって失敗に終わります。この手は、視聴者=私たちでしょう。少女は、手によって「お前はそれでいいんだよ」とキャラクターとして愛玩・慰撫されます。私たちのキャラクター消費を暗喩するシーン。

私たちがキャラクターとして扱う限り、それは私たちの意に沿って動く傀儡に過ぎません。しかし彼女はそれを、「私が自我のないキャラクターとして、扱われること」を拒絶します。私たち(視聴者)の元で動くこと=キャラクターであること=作品であること(それに収められること)への拒絶です。

一時はその”キャラクター”の中に閉じ込められようとする少女は、一転、その枠組みから出よう/自律しようと、手を押しのけ、ラスサビに向かって走り出す、アツい。

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この現代ではスマホの画面であるはずの無数のモニターを、ブラウン管で表現している電脳世界(?)がいいですね。主観視点での落下が気持ちよく、駆け出す瞬間とラスサビの入りがきれいに合わさって、突き抜けるようなカタルシスを得ます。

少年漫画のような展開で、描かれるラスサビ。しかしここで楽曲は終局へ。このラストカットの見せ方が最強。曲の盛り上がりとともに、カメラは急速に遠景へ。少女の心情と相反するきらびやかなライトアップ。うなだれる主人公は依然画面のこちら側に。アツすぎる

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「これは作品である」

この曲の大胆なのは、ここまでの説明がすべて歌詞の助けなしで行われること。ここまでほぼ歌詞とは無関係に物語を進行させ、作中作の明示という込み入ったテーマを扱っているにも関わらず、視覚情報による示唆のみですべてを説明しようと試みています

そして最も強いのは、ここまで作品からの抵抗を繰り返した少女に対して、これを私が「作中」と呼んでいる時点で、絶対にこれが作品であることから逃れられない、ということ。それが作品である以上、決して作品から逸脱することはできないというもう一層のメタが存在します。そうすると数々の抵抗もすべて作品の一部であり、それすらも意図されて作られたものかもしれないという思いがよぎります。なぜ彼女はラスサビの疾走で間に合わなかったのか、それはここでこの曲が終わるからです

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最後まで聴いたところでもう一度再生して見ましょう。画面の中の少女は、先程のことなんてすっかり忘れてのうのうと暮らしています。しかし2番になると再び思い出し、抵抗を始め、失敗に終わる。三度再生しても同じです。四度再生しても。少女の忘却も抵抗も失敗も、糸を引かれたマリオネットのように同じ動きと葛藤を繰り返します。先程楽曲は一回性の物語、と言いましたがこの意味では全く違いますね。楽曲は繰り返し再生されるものです。そして私たち自身が楽曲を再生するたび(再生された瞬間から)、そのループは何度も生まれ、消えていく運命にあります。

楽曲の再生という当然の要素で、私たちは楽曲(物語)の外で、何度もループを作り続けているのです。この曲が再生される限り。そしておそらく、そこまでがMVとして企図されて作られている。

この私の葛藤すら作品によって作られたものかもしれない。そんなことにも気づかず、彼女は作品の中で同じ結末をこの後も延々と繰り返すでしょう、画面の向こうの無数の手=私たちの再生と停止、リピート(繰り返し)によって。

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1番と2番の反復、これが作品であること、私たち再生する側の存在、そして繰り返し再生されること。これら楽曲のシステムといえるものを物語に取り込んだMV、「お勉強しといてよ」。単なるアニメ調のMVとしては、アイデアや見せ方が卓越しすぎていて、脱帽です。はじめて観たときに、その情報量の多さに唖然としてしまいました。作者のはなぶし(@hanabushi_)さんが最強すぎる

まあそんな込み入った話抜きにしても、素晴らしい楽曲、そしてMVです。曲然り、様々なオマージュとこの複雑な物語を曲という短い形式にまとめ上げた、かつ読み取れなくてもMVとして十二分なカタルシスを得られる。1000万点

最後に余力のある人は、「https://youtubeloop.net/ 」を使って、0:12-4:31でABリピート再生してみましょう。この曲、イントロとアウトロが、映像も曲そのものも、ある1点でぴったり合うように作られています。まるでそのアウトロからイントロへ、ぐるぐると繋がるように。

最後にここすきポイント、話の流れをスムーズにするため、どうしても入れられなかったので。

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おわり

20200619 追記
本記事中では採用できなかったが、ここまで読んだ人なら興味ありそうな、はなぶし(@hanabushi_)さん(MVの作者)投稿の参考動画一覧。

おわり


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