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受験・選抜試験で求められていること

 そんな事は言われなくとも「優秀な人」かどうかの選別であると思われるかもしれないが、そうではないと私は感じている。

送り出す側と受け入れる側のミスマッチ

 所謂<資格試験>であれば、それは全ての受験生に示す合格基準を超える「優秀な人」かどうかを選別する試験であるから、「優秀な人」かどうかの選別が求められていると考えるのは正しい。しかしながら、それは有資格者が対応する必要のある業務であったりというように一律全員にやらせると結果として世の中が混乱しかねないものだからであると私は考える。

 たとえば職業選択の自由について憲法の授業で講義する際に、医師免許(という資格)をもっていない医者にアナタは手術してもらいたいか? 手塚治虫のブラックジャックは無資格の天才外科医という設定なのだが、そういう天才外科医であれば法外な治療費を払っても手術してもらいたいと思うだろう。が、そうでない無資格で医学の知識を一部知っている「ニセ医者」であるとしたらどうだろうか。ちなみに世間で言われている「ヤブ医者」とは有資格者であって無資格ではないが、「ニセ医者」なのだと知ったら、アナタは同じように手術してもらいたいと思うだろうか?云々と話してこの自由の内容を解説してゆくというパターンが私の十八番なのだが、この記事で話したい事はそういった受験・選抜試験についてではない。

 ちなみに、受験者全員を物理的に入学させられない大学等の研究機関が実施する受験・選抜試験についても<資格試験>と同じことが言える。その大学が求める学生像に合わない受験生を受け入れることは、その後の講義の遂行などで支障が生じる可能性を自ら高めることになってしまう。やや余談となるが、それゆえに女子大学は女性にしか受験資格を認めないわけで、男性に受験資格が認められないことを平等原則違反であると難癖をつけても意味がないように私は思う。また、国公立大学が学費の面で優遇される理由は貧困層を優遇するからでなく、相対的に貧困な家計状況が原因で、将来社会を支える必要な人材を無駄に失わせないための措置であると私は考えるので、「国公大学は貧困層のものなのか」と訴えられてもライバルよりも試験で高い得点を獲得できなかった敗者の弁のように私には思えて仕方がない。そして、この記事で話したい事はそういった受験・選抜試験についてでもない。

 この記事において論じたい受験・選抜試験は、偏差値が付かない大学等の研究機関、すなわちFラン大学が実施するそれについて。そしてその受験・選抜試験で求められていることである。
(付記)偏差値が付く大学等のそれについては別途いつかお話ししたい。

 偏差値の付く大学のオープンキャンパス(以下OPとする)の場合、入学後の学び方や学生がどんなことに打ち込んでいるのかを根掘り葉掘り尋ねてくる質問が多い印象があるが、Fラン大学であろうとそうでなかろうと、OPで「進学相談」「受験相談」といった形でブースを設けて対応する風景は同じである。そして、そのブースで教職員が対応するわけであるが、訪れる高校生や保護者の方等からの質問を受けていると、受験・選抜試験の意義について進学を希望する側・送り出す側受け入れる側との間で比較的大きなミスマッチが生じているように常々感じている。
 どのようにお話ししようかと若干悩んだが、以前投稿したOPについての記事が予想以上に目に留めていただいた点を考慮し、以下では私や知り合い、同僚たちがOPで遭遇した質問を紹介しながら私の視点でコメントしていくことにする。


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