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民営化は民間施設化ではない


1 はじめに

 自分は、公共空間や公共施設の構想や計画、管理や運営における市民参加を扱ってきて、かれこれ四半世紀が経つ。構想や計画段階におけるデザインワークショップや活用促進に向けた社会実験の他、指定管理者の立場で公共施設の管理運営実務にも携わってきた。こうした経験が評価され、最近10年ほどは、愛知県内の市町村(名古屋、豊田、岡崎ほか)から依頼を受けて、指定管理者やPFI事業者の選定委員をいくつか拝命してきた。
 現代において、公共施設の管理運営を巡る民営化の流れを止めるのは至難の業だ。人口縮小や超高齢社会のトレンドにあって、自治体は税収減と支出増の局面にあり、一定の領域や業務を民間組織(株式会社、NPOら)に託すのは時代の必然だからだ。
 こうした時代の流れの中で実際、事業者選定に携わり、行政が担ってきた業務を民間組織が代行する、指定管理者やPFI事業者を選定する場面に立ち会う中で「本当にこれでいいのだろうか」とか「評価の基準を再考した方がいいのではないか」と思うことが少なからずある。このため、改めて、自分が何を課題と思っているのか、今後の課題解決の指針は何かについて整理してみたい。

2 来館者(受益者)の量と質

 事業者選定で議論になる対象の一つに「来館者(来園者)数」がある。沢山の方々に利用いただくことは重要だからだ。利用者が少ないよりも多いほうが良いのは、一つの考え方であるが「多ければ多いほど良い」という考え方は違う。その考え方をして良いのは、民間施設(営利施設)であって、公共施設にそれがそのまま適用されるのは望ましくない。営利施設においては、来館者は利益の前提(源泉)であり、露骨に言えば「より多くのお金を払ってくれる人を、より沢山」呼び込むことが評価指標として正しい。
 しかし、公共施設は、そうではない。公共施設の目的は、利益追求ではなく公益追求であり、詳細に言えば、それぞれに設定された設置目的に規定される。図書館、コミュニティ施設、生涯学習施設、スポーツ施設、公園施設、それぞれに別々の社会的価値、公益の創出が期待されており、自治体では、条例等に基づいて設置目的が掲げられる。そうした設置目的が実現することが最も重要であり、場合によっては、低所得者に向けたサービス提供が必要なこともあるであろうし、子どもや年金生活者かもしれない。先に指摘したことと重ねると「あまりお金を払ってくれない人」が利用しやすい、利用してくれることが評価されるべき場面が往々にしてありえるのが公共施設だ。
 例えば、「お金を払ってくれることが期待できる、30代40代をターゲットに来館者増の仕掛けをして、実際に沢山きた」ことと「ほとんどお金を払ってくれない子どもや年金生活者をターゲットに来館者増の仕掛けをして、実際に沢山きた」を比較して、後者よりも前者の方が数として多いからといって、それが公共施設の担い手として高く評価されていいのかと言うと、それは違うのではないか。
 こうした課題に対する筆者・三矢の見解は「来館者数の考え方を決めるのは行政の仕事」である。来館者の量や質の在り方について、もちろん民間側からの提案があってもよいが、丸腰で行政が受け止めるべきではない。行政が、来館者の量と質に関する考え方、ガイドラインを示すべきであり、それを基準として、提案者も審査員も議論を展開すべきだ(単純に多ければいいという議論は避けるべき)。

3 民間施設と公共施設の役割分担

 都市には、図書館、コミュニティ施設、生涯学習施設、スポーツ施設、公園施設など、様々な施設がある。それは民間施設(お店ほか)かもしれないし公共施設かもしれない。様々な施設において、民間施設と公共施設のサービス内容が一部重複することは十分ありえることであり、場合によっては、お客さんを奪い合う領域もありえる。
 仮に、お客さんを奪い合う領域があったとして、指定管理者やPFI事業者はどのような戦略をもつべきであろうか。戦略Aとして「民間のノウハウを活かして、民間施設に対抗する(客を奪い取る)」があり、戦略Bとして「民間施設が満たしている社会ニーズは民間にお任せして、公共施設の担い手は別のサービス領域(民間が手を出しにくい領域)に力点をおく」があると思う。事業者選定において、戦略Aの高度さが評価される議論に遭遇することがあるが、僕は戦略Bに力を注ぐ事業者こそ高く評価すべきだと思う。
 というのも、先述の議論の倒錯を一言で言うと「公共施設の民営化は、民間施設化ではない」からだ。公共施設の管理運営を巡り、民間のノウハウを活かして、低コストで高品質な公共サービスを展開してもらう、これが民営化であり、公共施設を民間施設にしてよいとは誰も言っていない。先(第2章)の議論と同じだが、そもそも公共施設がよって立つ社会的価値基盤は「収益が見込めないけれども、社会にとって必要なサービスを税金で実現する(市場の失敗を補填する)」のが公共サービスの本流(予算にゆとりがあれば、市民サービスとして儲かりそうな領域のサービス展開があってもよいが)であり、その公共サービスの供給拠点が公共施設である。この考え方を踏まえると、ひょっとしたら「この地区は、民間のあるサービスが充実しているから、その領域の公共サービスの量や質を下げる(別のことに力を入れる)。この地区は民間のサービスが不十分なので、公共サービスの量や質を上げる」という小地域経営的な考え方が、今後は重要となろう。

4 おわりに

 歴史的にみると、行政職員が管理運営していたからといって、民間施設的な発想を超えて、公共施設のあるべき姿を実現できていたかと言うとそれも心もとない。1970年代、80年代は行政の肥大化により、本来、行政が手を出さなくてもよいような領域にまで公共サービス、公共施設の領域が広がっていたことも事実であり、その整理、精査がままならない中で、1990年代00年代に、公共サービス、公共施設の民営化の実践が始まったのが日本の実情である。
 従って、上記で述べた「本来あるべき公共施設像」に関する正しい理解、深い議論がないまま、悪く言うと「あまりいいとも言えなかった公共施設像(出来の悪い民間施設?)」を基準に、民営化の評価基準が作られてはいないか。この矛盾が、自覚無く、国内の様々な都市において「民営化=民間施設化」を許す結果になってはいないか。これが僕の問題意識である。

※冒頭の写真は、UnsplashBernd 📷 Dittrichが撮影したもの。

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