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ショパン友人帳4:エウスタヒー・マリルスキ

気ままにショパンの人間関係を探る

 前回の「ショパン友人帳」の投稿から少し空いてしまったが、今回もフリデリク・ショパンにどんな友人がいたのか明らかにしていこうと思う。今回ご紹介する友人は、フリデリクの親友としてとても有名というわけではないが、欠かせない人物、ショパンファンは感謝しなければならない人物だ。

アントニ・エウスタヒー・ユゼフ・マリルスキ(Antoni Eustachy Józef Marylski)
1804年ロズラズウフ/1871年8月4日ジュウヴィン

初めて気づいたちょっと嬉しい事実

 マリルスキが生まれたロズラズウフという地名、聞いたこともないのでどのあたりなのか知っているわけがなかった。そんなわけでまずはロズラズウフが一体どこにあるのか、それを調べてみた。ちょっとこれを見ていただきたい。

(グーグルマップが開きます)

 なんと!フリデリクが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラから歩ける!!!住所までは知らないのでざっくりとしているが、近いということはお分かりいただけると思う。マリルスキの方が6年ほど前に生まれているが、2人はこんなに近いところで生を受けたのだ。しかし、1823年時点で、マリルスキの実家はクションジェニーツェというところにあったということが分かっており、ロズラズウフから引っ越したのか、元々実家はクションジェニーツェだったのか、今回の調査では分からなかった。

マリルスキ家について少し…

 エウスタヒー・マリルスキの父はピョートル(1775~1829)、母はカタジナ(?~1847)。姉ルドヴィカ・ヨアンナ、弟ユリウシュの三人兄弟だ。家族の詳しい情報は今回あまり見つけられなかったが、弟のユリウシュは1836年にフランスに移住し、フランス国内を転々としていたようだ。もしかしたら、フリデリクと連絡を取り合ったかもしれない。ユリウシュはパリのポーランド「文芸協会」の会員であり、48年にはフランスに帰化し、出版業に携わった。

定番化してきた「ショパン家の寄宿生」

 マリルスキは初め、自宅で教育を受け、その後プウォツクのギムナジウムへ進学した(どうやら下宿していたらしい)。そして、1820年ワルシャワ高校へ通うことになり、寄宿舎にやって来たのだ。その時がフリデリクとの最初の出会いだろう。
 当時、ショパン家はカジミェシュ宮に居を構えていた。マリルスキは23年までワルシャワ高校に通っていたので、寄宿舎で生活したのも23年まで。フリデリクがワルシャワ高校に入ったのは23年、ちょっとだけ学生生活も共にしたかもしれない。マリルスキがワルシャワ高校で一緒に学んだ仲間には、ヤン・ビャウォブウォツキや、カロル・ヴェルツ、ティトゥス・ヴォイチェホフスキらがいる。

マリルスキのその後

 ワルシャワ高校を卒業後、同年ワルシャワ王立大学法学・行政学部に入学。なんと入学手続きをした日も分かっていて、1823年9月5日。26年に行政学の博士号を取得し、27年にはプラハへ赴き、ワルシャワ王立大学教授フリデリク・スカルベクの紹介状により、ヴァーツラフ・ハンカ(後記参照)と会う。28年、フリデリク・スカルベク、ユゼフ・カラサンティ・イェンジェイェーヴィチ(後にフリデリクの姉ルドヴィカの夫となる)らと共に、ヨーロッパ諸国を巡り、刑務所や慈善事業の制度を調査した。その他にも、マリルスキは様々な国に出掛け、そこでの見聞を本にまとめている。
 29年には父ピョートルが亡くなり、クションジェニーツェと、ジュウヴィンの領地を受け継いだ。彼もまた領主の息子だったのだ……。

参考までに…
クションジェニーツェ(グーグルマップ)

ジュウヴィン(グーグルマップ)

 彼は3度結婚している。最初の結婚は1830年で、息子2人、娘2人をもうけたが、妻は44年に亡くなった。2番目の妻の名前は分からず、1805年生まれだということだけつきとめた。マリルスキは1804年生まれなので、歳が近い妻だ。その妻との間に子供がいたのか、また、どのような別離があったかは分からないが、最後の結婚の相手となったのはルドガルダで、この妻との間にアントニという息子が生まれた(父親と同じ名前で紛らわしい…)。息子アントニは1856年に誕生している。…ということは、マリルスキはその時既に50歳を越えていたはず。妻ルドガルダはというと、なんとその当時16歳という資料を見つけてしまった…本当だろうか。マリルスキは、自分の領地であるジュウヴィンでこの世を去っている。

書簡集で見る2人の交流

 2012年出版の「ショパン書簡集」(本記事の参考文献参照)では、フリデリクが友人に宛てた手紙として初めて登場するのがエウスタヒーへの手紙(2003年に出版された「ショパンの手紙」にはこの手紙は載っていない)。そんな理由で、筆者の中では印象に残っている人物なのだ。
 その手紙はどんな内容かというと、ワルシャワ王立大学の入学手続きを終えて一度実家に戻っているマリルスキに、(おそらく彼に頼まれて)大学の授業がいつ始まるのかを教授に聞きに行った結果の報告である。この手紙は、マリルスキの息子アントニが自筆から筆写したものから翻刻したようだが、自筆も筆写したものも残っていないという。
 その他には、フリデリクが旅行先のベルリンから、ワルシャワの家族に宛てた1828年の手紙で、「マリルスキはベルリンの女性が美人だなんて言ったけど、マジない(意訳)」と書いており、マリルスキと女性の好みが合わないことがうかがえて面白い。

マリルスキに感謝!

 マリルスキは、回想録を残していて(これも息子アントニが書き写したものがある)、そこに学生時代の記述があるのだ。そこから、ショパン家の様子をうかがい知ることが出来る。ショパン夫妻が寄宿生たちを自分の子供のように愛情をもって育んでいたこと、体の弱いフリデリクのこと、そんなフリデリクの音楽の豊かな才能のこと。ジヴニーの風変わりな出で立ちについても事細かに教えてくれている(結構笑える)。加えて、ワルシャワ高校がマリルスキにとって快適な場所だったことも分かる。どうやら、プウォツクのギムナジウムは校長が厳しく、生徒を叩くこともあったようで(現代なら大問題になりそうだ)、それに比べて、ワルシャワ高校のリンデ校長は穏やかで、時に体調不良の教師に代わって講義をすることもあり、それがとても興味深いものだったという。
 こうした情報は、ショパンファンにとって非常にありがたいものだ。この回想録のワルシャワ高校時代の部分は、1903年に『クリエル・ヴァルシャフスキ』に掲載されたそうだ。


気まぐれ後記
久しぶりの更新となりました。ここまでお読みくださり、ありがとうございます。写真がプラハなのは、マリルスキがプラハを訪れたことがあるから…という理由だけです(手持ちの写真の貧弱さ)。今後、新しい情報や、訂正等ありましたら、加筆致します。

【補足】
マリルスキがプラハで会ったハンカさんについて。
ヴァーツラフ・ハンカ
チェコの言語学者で、様々なポーランド人学者と交流していた。彼の所蔵品の中には、ショパン、ドミニク・ジェヴァノフスキ、エウスタヒー・マリルスキ、アルフォンス・ブラント、フリデリク・スカルベク、サミュエル・リンデなどの手紙があった。フリデリクは1831年に実際にハンカと会っている。

【おまけ】
・マリルスキの実家があったクションジェニーツェについて。
フリデリクはマリルスキの両親に招かれて何度かクションジェニーツェへ行った可能性があるようです(ワルシャワから30㎞くらい)。クションジェニーツェを調べていたらなんと、この地には現在「フリデリク・ショパン小学校」があるとの情報が!通いたい、通えない。悔しいのでせめてサイトのURLと写真(Wikipedia Commonsより)だけそっと貼っておこう…。
http://ksiazenice.szkola.pl/

クションジェニーツェのショパン小学校

しかも、すぐ側の通りの名前は「エウスタヒー・マリルスキ通り」。
https://www.google.com/maps/place/Szko%C5%82a+Podstawowa+Im.+Fryderyka+Chopina/@52.0731874,20.6921285,16.8z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xc498afdf3a0cf7a5!8m2!3d52.0747091!4d20.6952203

・マリルスキが出版した書籍について。
こちらでタイトルや所蔵している図書館を見ることができます。
https://www.worldcat.org/search?q=au%3AMarylski%2C+Eustachy.&qt=hot_author
(所蔵図書館までの距離が8,000㎞前後で変な声出た。)


参考文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年

ピョートル・ミスワコフスキ著、平岩理恵訳『ショパン家のワルシャワ 原資料によって特定されたワルシャワ市内ショパン家ゆかりの地一覧』ポーランド国立フリデリク・ショパン・インスティトゥト、2014年

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://nifc.pl/pl

WIKIPEDIA(ポーランド版)
https://pl.wikipedia.org/wiki/
(閲覧日2020.7.18)

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