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映画「タワーリング・インフェルノ」(1975年・米) ~ 二大「ブルー・アイズ」スターの競演に酔う

午前十時の映画祭13」で「タワーリング・インフェルノ」(1975年・アメリカ)を鑑賞した。ワーナーと20世紀フォックスという大手スタジオが映像化権を獲得、共同して作ったパニック映画の大作である。莫大な予算が投入され、豪華スターのキャスティングがなされたと聞くと、それだけでワクワクしてしまう。

 サンフランシスコに新築された138階建ての超高層ビル、グラス・タワー落成式の日。建築家ダグ・ロバーツ(ポール・ニューマン)はビル建設責任者で、社長の娘婿のロジャー・シモンズ(リチャード・チェンバレン)が経費節減のために安価な電気系統部品を使ってしまい、ビルに大火災の危険があることを知る。ロバーツの警告を無視して最上階では豪華な落成パーティが開かれるが、中層階から火災が発生する。ロバーツは消防隊長オハラハン(スティーヴ・マックィーン)と協力し、ビルに閉じ込められたパーティ客を救出しようとする。

 この映画は、過去何度となくテレビ放映やビデオで観ている。公開時には家族で映画館で観た。当時の私の家族は土曜日にはみんなで映画館に出かけ、買い物をしたあと食事をして帰る、という過ごし方をよくしていた。住んでいる街にはもう映画館もほとんどなくなったが、当時の興行館には2階にアップグレードの特別席があり、この作品はそのちょっと良い椅子で家族横並びで座って観たという記憶がある。今となれば懐かしい思い出である。

 さて、長じてからこの作品を改めて観れば、いろいろと気の付くことや、新たに感銘を受けるところもある。パニックものの娯楽大作だから、手に汗握ってハラハラドキドキしながら観ればよいのだが、「グランドホテル方式」で登場人物のそれぞれの人間模様が描かれており、その面白さもあるのだ。

 サンフランシスコのタワービルにヘリでさっそうと帰ってくるのは、主役のひとり、ダグ・ロバーツ(ポール・ニューマン)。いかにも職人肌のできる男といった風情であるが、執務室で待ち構えていた恋人スーザン(フェイ・ダナウェイ)のベッドとお酒という熱い歓迎を受けてしばらくおこもりするところなど、堅物一辺倒ではない。恋人スーザンは、当時のキャリア・ウーマン(もはや、死語?)の典型で、編集長になりたいという仕事上の野心と、自分と一緒に砂漠に行ってほしいというダグの希望との間で揺れ動くという設定である。ダグが客たちを救い出そうと奮闘しているときには必死に支えようとする姿は美しい。ダグは、設計のことはわかるが、当然のことながら大火災に遭遇したことはない。火災の発生元で知人が犠牲になった様子を目の当たりにして動揺しまくっていたが次第に腹をくくり、責任感から避難誘導の陣頭に立ち、ことにあたろうとする。そのダグを、しっかりしろ、と叱りつけるのが保安係主任のハリー・ジャーガンだが、これを演じているのがなんとあのO・J・シンプソンである。アメリカン・フットボールの名選手から俳優に転じたが、彼を一躍有名にしたのは、殺人容疑をかけられて刑事事件では無罪になったが民事事件では負けた、という「O・J・シンプソン事件」である。本作では人の命を救う結構よい役をもらっているが、なんとも皮肉なものだ。                                冴えない老詐欺師ハーリー(フレッド・アステア)と、カモにされそうになった未亡人リゾレット(ジェニファー・ジョーンズ)。アステアが詐欺師なんて似合わないような気もするが、心優しく悪人になりきれない。レンタルで調達した上着を犠牲にしても火を被った客を助けようとするところ、良心の呵責からリゾレットに正体を明かそうとするシーンなどは名演である。   ジェニファー・ジョーンズは、社長役のウィリアム・ホールデンとの「慕情」ぐらいしか思い浮かばない地味なスターではあるが、ここでは教え子の子どもたちを我が身を顧みずに救おうとするなど大活躍をみせる。ハーリーとの未来が成就しなかった結末は、観ている者に切ない余韻を残す。     広報部長のダン(ロバート・ワグナー)と秘書ローリー(スーザン・フラネリー)は、火災発生時に個室で密会していたため、階に残っていることを知られず煙に巻かれた。不倫なんてするもんじゃない、という教訓かもしれないが、ローリーに「このまま私たちのことは誰も知らないまま死ぬのね」ということばに奮起したダンが、助けを呼びに火の中に飛び出すところには感じるものがあった。結局ダンは火だるまになるのだが、それをスローモーションで撮っているので恐怖感が倍増する。                  娯楽作品でもつい人間観察をしてしまう私が今回気になったのが、すべての元凶で、本作の悪役を一手に引き受けたロジャー(リチャード・チェンバレン)である。悪事を行っておきながら開き直るは、妻の切なる言葉にも改心しないは、スーザンにまでちょっかいをかけて、あげくの果てに自分だけ先に逃げようとして転落するという、まったく良いことなしのボロボロの設定である(よく、役者が引き受けたものだ)。見事なクズぶりでありかばい立てするつもりはないのだが、ある程度の人生経験を経てみると、実はこういう人間は世の中には結構いるような気がする。妻のパティ(スーザン・ブレイクリー)と結婚したときには、本当に愛し合っていて未来に希望もあっただろうが、義父に気に入られようとしきれずに歪んで自暴自棄になった。考えてみれば、義父が亡くなればすべては娘夫婦のものとなるだろうから、内心はともかくうまく立ち回って最後に笑うことも可能だったのに、それができなかった心弱い人間である。思い切って早く何もかも捨てていれば、命までもなくすことはなかったのにね、とつい考えてしまう。

 もうひとりの主役の消防隊長オハラハン(スティーヴ・マックィーン)は、見事に職務に徹し、私生活はみじんも見せない。いつもの孤高のイメージだがかっこいいことこの上ない。この映画が公開されたころ、同級生の女子がマックィーンのファンとニューマンのファンに分かれてバトルをしていたことを思い出す。私がこの映画のポスターを見た時にまず感じたのは、二人とも見事なブルー・アイだということである。澄み渡るような美しい瞳を持つ二大スターは見事に大役を演じ切り、どちらに軍配が上がるようなものではないだろう。はっきりしているのは、これからも私は折に触れて何度でも、この傑作を観続けるだろうということである。

 最後になるが、この映画の主題歌「タワーリング・インフェルノ愛のテーマ」はかなり好きだった。この映画のことを考えるとつい、最初の一節が口をつくくらい。本作にカメオ出演もしていた歌手のモーリン・マクガヴァンは、映画「ポセイドン・アドベンチャー」の主題歌「モーニング・アフター」も歌っており、当時レコードを買ってよく聴いていたのである。この人のことを今、ウィキペディアで検索しようとしても、日本語版はないのが少し寂しい。