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「結」(つながり)への転換

終わらせることはつながること

ちょっちだけ日記Vol.80

趣旨とあっているか判りませんがこちらにも参加させていただきます。

#大事にしていたから大切なものに変化する話




noteをはじめて一年ちょい経ったのかな?
ネットとの関係で言うと
もともとはWebに自己満足的音楽作品を自己満足的に残していただけ。
匿名ながらも自分が生きた証は残したい。
それが全てだったがその一面は今も変わっていない。

父母がなくなったのをきっかけに故郷とのつながりが再開した。
その故郷をテーマに小説を書いてみた。
これも自己満足ではあるがどこかに置いておきたくなった。
いろいろ迷ってnoteに置くことにした。
これがnoteを始めたきっかけである。
肝心のその小説はまだ「終結」が見えていないが。

時を同じくしてカーリング短歌、カーリング俳句が始まった。私もそれに乗ってみた。
何でも片足を突っ込んでみる性格は子供のころから変わっていない。
凡人レベルながらも短歌俳句を作りだした。

いまは音楽、短歌、俳句のみならずストーリーにまで手を出しているが
しょせんはアマチュア作品。
みなさんのようにオリジナリティのある作品はなかなかできない。
カバーと、それにパロディやオマージュとも言えないパクリ作品だらけだ。
オリジナル作品にはとんでもない労力がかかる。

昨年秋に「みんなの俳句大会」に参加させてもらった。
よくもまあこんなレベルでと今から思えば恥ずかしい限りだ。
だが「見てもらえる」という喜びが付加した。
閲覧数や「スキ」の全てがそうではないのは判っている。
それでもいく人かの方は読んでいただいてるのだ。
付加、ふ化、負荷。。。
そう、生まれ出た「つながり」は同時に生れ出た重荷でもある。
ただ、一定レベルまでは達するという自己満足からの開放であったことに間違いはない。
まだまだ抜け出し切れてはいないが。

二次創作企画「ぽん」で十年以上ぶりにオリジナル曲も書かせていただいた。
せっかく書けたので続けるようにはしているがやはりこの労力は半端ない。

音楽のみならず短歌俳句、それに文章も、
それがパロディやカバーだとしても、
最初は攻めて攻めて攻めまくる。これが流儀だ。
自己満足だけならこれで良かった。
でもnoteというステージの上では
「見てもらえる」「聴いてもらえる」ことを意識せねばならない。
「つながり」を意識せねばならない。
どこかで「終結」あるいは「完成」への転換点が必要になる。
その基準は締め切りであったり季節感であったりまちまちだが。
攻めすぎた違和感を取り除き最低限のカタチだけは整える。
妥協ではない。これもまた自分の意思を残すための方策だと考えている。
今の私の創作の過程で言えばその努力は最重要なのだ。

はじめは「仕方ない、これまでか。」という境地だったが
今は見て聴いていただくための最終作業という「快感」に変わりつつある。
その感覚を伴わないものは世には出せないとさえ感じる。
限られた時間と労力の中、「ストイック」になるべきはこの転換点だと思っている。

なんども言うがそれでも所詮はアマチュアレベルである。
自己判断で65点とか70点とか言っているがそこまで達しているのかどうか?
この文章とてそうだ。どこまで理解いただけるか判らない。
ただ「攻めること」と「終結させること」これはいずれも自己表現の両輪に他ならない。

今後も創作は続けていきたい。
自分を残したい。
その自分の中には「結」(つながり)も含まれる。

残された時間もあとわずかだ。



ではまた。

みなさんにいいことがありますように。





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