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(23)2018年 T字の要

小説「大村前奏曲(プレリュード)」序章 Vol.23

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 さてと、私は大村市内の「諏訪」に居を構えることにした。居を構えるとは言っても2DKのハイツだが。ここなら南の玖島城下から発達した町の中心部からは少し離れるが自転車で十分行ける距離だし日常生活には困らない。何よりも三城館跡(三城城址)やそれ以前に館のあった乾馬場、大村家や家臣の菩提寺となった本経寺、大村純忠終焉の地と言われる坂口館も言わば徒歩圏内で何かやはり重要な場所に思えた。「ここに住んでみるのも有りか。」単純にそう思った。大村市の地形を横向きの「T」字に例えるとここはその要の要かも知れない。
 ちなみに「T字」と表現したが現在はともかく古来からの正確な日本語としては間違っている。外来表現だと誤解している方も多いと思うがアルファベットの「T」ではなく漢字の「丁」が正しいのだ。たまたま形も読みも似た文字で混同されてしまったようだ。三叉路を表す「T字路」も正確には「丁字路」と書いて「ていじろ」である。今となってはその「丁字路」の方がもはや死語だが。
 そんなことはどうでも良い。確かに大村駅から玖島城にかけてのエリアは公共施設や商業施設、ボートレースなど娯楽関係、老舗店舗なども多く商店街も一応体を成している。中心市街地と呼ぶにふさわしい街並みではある。しかしそれは江戸期になって幕藩体制が整い大村の新たな城下町と成ったが所以の話である。私の興味はそこにはあまりそそられなかったと言うのが本心だ。もちろんこの特に他地域に誇れるような産業のない大村が江戸期をどう乗り越えたかは知らねばならないがその本質はこのエリアには無いと感じた。言葉は悪いが空間的にも機能的にも一杯一杯で「出来上がった町」なのだ。それよりも探らねばならないのはそれまでの大村がどう生き残ってきたか、言い換えれば混乱を極めた時代の大村がどうだったのかなのだ。
 長崎に来てから下調べはしていた。当然そのカギは純忠の時代にあると感じた。だからして純忠が居を構えていた同じ場所に住むことに決めたのだ。ただもう一つ理由があるにはある。やはり地質と地形だ。だがこれも土地の歴史に他ならない。郡川や萱瀬谷の地形が大村の歴史に何か影響している筈、資料で読み解けない部分は自分の目で見るしかない。ここからなら散歩やサイクリングがてらあちこち回れると思った。
 あと歴史を踏まえて奇妙なのはキリシタンのことだ。ここ大村はキリシタンの総本山の町である。だが長崎市内を含めて県内あちこちに世界遺産となる程のキリシタンゆかりの地が多くあるにもかかわらず著名な観光地となるような教会やその痕跡は大村市内には数少ない。少なすぎるのだ。本当にそうなのか。大村家は日蓮宗本経寺に改宗しているのだがじゃあ民衆はどうなのだ。キリシタンを完全と言っていい程排除できたのか。一旦は全領民をキリシタンに改宗させていた筈だ。それで純忠は神社仏閣を焼き討ちしたのだろう。江戸期になって檀家人別制度が厳しく整えられたとは言えその全てを再改宗など出来たのだろうか。
 一般的な知識として隠れキリシタンの拠り所となったのは浄土真宗だと言われている。時同じくして本願寺は信長以来の弾圧により権力を無くしていた。統計的なデータは調べていないがイメージとしてこの国の一般民衆は少なからず真宗門徒だったであろう。各地の真宗の寺としては良く言えば自由度の高い状況で、悪く言えば切羽詰まった状況でそれでも民たちを取りまとめねばならない必要があったに違いない。ましてやこのキリシタン総本山の大村である。
 そう、立ち寄らなければならない寺がもう一つある。それも私の住むこの近く、大村ICのすぐ山側にあり、純忠終焉の地の坂口館とは町名こそ異なるが隣合せなのだ。歴史に関係ない筈も無い。おまけに地理的にも萱瀬谷の入り口で郡川が迂回を始める真ん前、かつこのエリアに突き出た琴平岳の岩盤の「ヘリ」というか「キワ」に位置する寺なのだ。この時はまだそんなに自分が通い詰め、親しい関係になる寺とは思っても居なかったのだが。
 過去に大村に関する重要な歴史を持ち、今また現在になって空港やインター、新幹線の新駅を軸として何らかのポテンシャルをこれから形にしていくであろう町。何だか安物の都市開発プランナーの企画書のような言葉だが事実その通りだと思う。ただそれを見てみたい。
 自分が何が出来るのかは視野の外に置いておくとしてもこの場所に「居を構える」ことに異存は無い。


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(続く)


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