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(19)2021年 偶然は必然

小説「大村前奏曲(プレリュード)」序章 Vol.19

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 もう少しネットワークについて考えてみた。大学時代は物理学的、数学的な部分ばかりに凝り固まって学んできた私だったのだが今になって現実味が帯びてきた。一佐が「君の理論が役に立つ。」と言ったのもこういう意味だったのかも知れない。本来は自然界の事やソーシャルな事象、人のコミュニケーション関係などを数値的にとらえる学問である。その結果「歴史がネットワークの産物」なんぞはごく当たり前の事だったのだ。
「友達の友達は皆友達」とよく耳にする。くしくもタモリさんのあの番組で広まった言葉だが私の分野で言えばこれは正しいのだ。誰かが有名人と知り合いになりたいとする。さすれば最短で六人の知人から知人を辿ればその本人に会えるのだ。これは統計的にも何度も実証されている。とある番組でフワちゃんがアリアナ・グランデに会いたいと実験したところ六人は無理だったが八人目にはそのマネージャーと話せたようだ。
 人間は各人それぞれ何らかの、それも複数の社会的なグループの中で生きている。毎日の生活の中で周囲と何らかの「関わり」をもって生きているのだ。「自分は孤立無援」という方も稀には居るだろうがそれですら人間同士の関わりを絶ったところで自然現象や他の生物との関係までは絶ち切れない。食事や生活はどうするのだということだ。「バタフライ効果」という言葉もある。蝶の羽ばたきの一つが巡り巡って気流に影響し地球の反対側で竜巻や嵐を起こすかも知れないという説だ。防犯用語では「割れ窓理論」という言葉もある。ほんの些細な出来事が実は周囲に大きな影響や効果を及ぼすこともあると言うことだ。
 人間のコミュニケーショングループの中では一人もしくは複数のリーダー的人物が存在する。PCネットワークで言えばLANサーバーがそれだろう。このリーダーに比較的近い位置ではより密なリンクが発生しグループ内グループも形成される。よく世間で言うところの「派閥」だ。良くも悪くも概ねそれぞれのリーダーを軸に放射状にリンクが出来るのだ。ただ注目したいのはこのリーダーとの直接リンクではない。
 何度も言うが各個人は自然界全体で見れば全て何らかの集合体に属している。そしてその集合体もまた他の集合体と社会的な関わりを持っている。時には同調し、時には反発し、時には衝突したり包み込んで吸収する。そんな関係が世の中には無限大に存在するのだ。グループを構成する人の多くは他の複数のグループにも同時に存在している。そんな中でグループの中心近くには居ずとも、仮にそれが位置的に末端だったとしても複数のグループに影響を及ぼす人間、そのポイントこそがいわゆるハブである。
 この場合にはグループとグループが同じ接点で接しているといえる。絵で言えば○と○とが一点で接しているのを想像いただければ解り易い。だがパターンはそれだけではない。グループの中では決して中心近くにいる訳ではない。むしろその方が都合が良いかも知れないのだが他のグループの誰かと直接的なリンクを持っている場合もある。そのケースももちろんその双方がハブなのだ。メガネ状に二つの○が線で繋がっているのを想像いただければ良い。このハブ的存在の人物を上手く経由すれば会いたい人物に六人ちょいで辿り着けるということなのだ。
 現段階では未成熟でポジティブには語りにくいとしても組織論にあてはめることもできる。もはや軍隊的なトップダウンでは組織は維持できないという声もある。かの一時はプロ球団を持つ程の栄華を誇った商業グループもそうだったかも知れない。一方、現代にいたっては「ネットワーク社会」という言葉が当たり前になっている。互いが得意分野や専門知識のスキルを発揮し横の関係性を重視しながら「自己責任と自己判断」のもと高い自由度の中で組織を運営する。それがネットワーク型組織だと私は思っている。特に昨年からのコロナ問題でサテライトオフィスやホームワークが浸透した。それまで行われていた早朝や深夜までの会議と称するトップの意思確認の時間が無駄だったことも証明されては来た。もはやこの横の繋がりがメインの集合体を組織と言って良いのかどうかも迷うほどだ。
 ただ、言った通りまだまだこの社会は未成熟なのだ。行動の主体が各個人個人の意思となることによって、全体の利益と個人の利益のラインも曖昧になって来ている。個人の意思とは言っても自分がどんな情報を根拠として何の目的で動いているのかそれさえも不明確なまま見切り発車しているのが大多数ではなかろうか。ターミネーターに出てくる言葉を借りれば「中枢など何処にもない」という表現がある。ネットワーク社会が進化するほどリンクが増殖し先ほど言った○と線の関係だけではなくなる。もはや中枢、言い換えれば責任の所在だけでなくそれぞれの集合体の枠組みすら見えなくなるのだ。「目的だけを共有しあとは各自の判断」と言ってもそもそも共有する対象すら判らなくなるということ。それなのに遠い先のひょっとしたら仮想か偽りかも知れない場所にいとも容易く直接行けてしまう。そこで得た情報に惑わされてしまう。私はSNSはやっていないがハッシュタグとやらがその例なのかも知れない。
 この理論を学んできた私が否定的な意見を言うのもはばかられるが個人的には現代はその自由度を優先するあまり故意に「自己責任」という部分を無視あるいは放棄している様に思う。現代の誰もがネットワークを都合のいい道具として使い自分の行為に「責任」が発生していることなど考えても居ないのだ。そんな今の環境で本当に「判断」など出来るのか。ましてや意思を決定しなければならない現場や集合体の中では「日和見」が一番の罪悪なのだ。災害時の集団での逃げ遅れの重大な理由にも挙げられる程だ。ビルの中で非常ベルが鳴っても逃げるのをカッコ悪いとする風潮すらある。いじめや虐待のことも無関係では無いしフェイクニュースの拡散も同類である。とにかく自分の判断や態度を示さないという行為は「無言」と言う名を借りた「イエス」なのだ。また「成り行き」と言う名の「悪意」と言っても良い。私とて例外ではないが。
 少しボヤいてしまった。ネットワークの話に戻る。簡単にまとめると世の中、いや宇宙の全ての事象は何らかの関係によって連鎖しているということだ。一見離れた空間、離れた次元、離れた時間に起きた出来事もその間にいくつもの集合体を経由しながらリンクやハブによって互いの因果関係がもたらされているということ。「偶然は必然」ということなのだ。少し蘊蓄を語り過ぎたか。



(続く)



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