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政治は悪ではないんだろう、しかし……

政治「そのもの」の地位が失墜している、というのは、日本のテレビや世界のニュースを見て思うことなのではなかろうか。しかし、政治それ自体が絶対悪であるわけはさすがにないだろう(必要悪という概念はここではあまり関係ない)。しかしもはや、政治家こそが悪であるというのは、日本に限らず世界の公理となっている節さえある。マスメディアの不用意な煽りを差し引いても、昨今の日本政治家のあれこれには開いた口が塞がらない。そんな日々の連続では、最早はやあくびすら出ない。

政治は国家や社会の運営にとってなくてはならない「機能」「機関」、「役割」だ。しかし、今この時代に生きていて、人は「私」機関の方により希望を抱いているというか、「公」領域が失望に満ちているのならば、なおいっそう私たちは市民的で、経済的な、タフだけど自由もあるそういう市場空間を逞しく生きていかざるをえない。そこで逞しく生きれなかった者は、国家や地域政治がおざなりに用意したセーフティーネットで命をとりとめる(福祉国家)。
 何かがおかしいのである。「公」の空間は、政治の機能は、もっと充実されるべきだ。当たり前だ。それを阻害しているのは、ほかならぬ政治家が悪人ばかりだからである。そのせいで、政治が必要ですらないただの「悪」と化し始めているのではないだろうかというようなことをぼんやりと思った。
 政治だ、国家だと大きい言葉を使っているが、昨今の政治家がみな悪人であるというのは、北野武が昨年公開した『首』を撮った際に、インタビューとして「戦国大名なんてみんなワルでしょ」と言い放った、そのあっけらかんとした認識の爽快さに通じている。
 『首』とほとんど時期を同じくして公開されたリドリー・スコットの『ナポレオン』でも、英雄ナポレオンはまったく英雄視されるどころか、一介の、薄汚い欲望や寒々しい男性としての魅力のなさを纏った、「人間」が描かれていた。彼が政治や国政で煌びやかな手腕を発揮するシーンというのはほとんど省略されていたからである。リドリー・スコットといい、北野武といい、彼らは政治家そのものの悪の潜在性について極めてクリティカルな認識を抱いている。政治家は悪になりゆくのだ。

カール・シュミットは、「私」もしくは「私たち」という一つの主体軸を置くことに対して、「友か敵か」という判断枠組みを使って関わる交渉者や国家、共同体との関係を結んでいくことを政治の本質だと主張した、と聞いたことがある。僕は『政治的なものの概念』を読み通したことがないのでこの理解は間違っているかもしれないが、とにかく「友敵理論」なるものは現代政治においても通用するものなのだろうか? 政治に関わる者全員悪人だらけということになってしまいかねない(まさかそんなことはありえないだろうけど)。「善悪」の二項対立概念を用いた勧善懲悪、善をもって悪を斃すというあまりにも前時代的でお粗末な考え方をあてはめられないにせよ、政治家に巣食った悪の蜘蛛の糸をふりはらうのは並大抵のことではない。

大学で政治学に関わる二、三人の先生の講義を受講したことがあったが、政治学が研究対象としている事柄に、このひたすら悪人としての政治家が誕生する土壌としての政治空間の実態を暴く、というようなものはなかったかもしれない。そういう研究も可能なのであろうか。悪人・政治家をたくさん抱えた国会、あそこで行われているのは、本当に「素朴な意味での」立法活動なのだろうか。キックバック、パーティ券、もといウラガネなどとはあるが、あそこで行われているのは、「人倫の彼岸」もしくは「(非)倫理の政治経済学」とでも呼べばいいような地獄だ。人はどのようにして堕落し、同じような答弁を繰り返し、信じがたいほど無教養でピンボケした言葉を放つ、そうした「紋切型」の政治家へと生成してしまうのか。
政治空間が、外側にではなく、内側に向かって人を腐敗させていく構造、これを学術的に探究あるいは適切な書物があれば勉強してみたものだと思った。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。