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【掌小説】街灯

街灯(掌篇)

 外を歩いていると、さして強くない一筋の光に誘われてかえって暗闇の中に迷い込んでしまった。確かに夜だった。私の目線は灯を捉えていた。それはひどく汚れた、白熱電球の光だった。丸みを帯びた硝子の球体から、暖かみを含んだ奇怪な光が流れていた。電球はおそらく剥き出しの姿であろう、二つばかり同じ形状のものが不気味なまでに仲良く並んでいた。白熱電球の周りには蜘蛛の巣が執拗に絡まっており、地上から僅か二メートルあたりの所で私を見下ろしているのだった。まず、電球はどのようにして上方に設置されているのか。これは簡単なことだった。街灯だったのである。ひどく錆びた長細い鉄筋の棒が地面から伸び、白熱電球はロープで鉄筋棒に頑丈に絡まって固定されていた。ふと、私の眼は消失してもいいかもしれないと気狂いめいた言葉が内省的に拡がった。蜘蛛の巣が張ってあるということは、時間が経過しているということだ。この街灯もどきの装置はここニ、三日の内に出現したというわけではなさそうだ。とすると私はおいおい普段の観察を怠っていたことになる。ここは近所だから。さて、この装置は"何のために"設置されているのだろうか? この問いを前にして私は困惑した。何のため――? 私は次のようなことに気付いた、つまりここは他人の縄張りもしくは何らかの敷地であって、私は不法行為に似たことをしでかしているかもしれないということ。しかしそんなことがあるだろうか。街灯が照らす地面をよく認識してみるようつとめた。剥き出しの地面の表面は夜の冷気に触れて固くひんやりとしている。辺りをゆっくりと見回した。しかしここはどう考えても人々が多く行き交うような街路ではない。だとすれば私道か。近くの草の茂みで浮浪者が寝ているかもしれない、浮浪者という言葉を口にして、なぜこの考えに早く気が付かなかったのかと私は無性に苛立った。あの灯がなければ私もまた暗闇に帰すことになる。なぜこんなところに迷い込んだんだろう。私は自宅の近所を散歩していただけだった。ここは非常に昏い。知性も盲目になるほどには。
 次のような考えもあるにはあった……この場所は公園といったある種の公共施設で、その施設の中の街灯が一日中光っているのではないか。ここが公園だと? 私の自宅から最寄りの公園までの距離を考えるとそれはありそうもなかった。二キロも離れていたからだ! 私は夜の散歩に出掛けたばかりでそんなに歩いてもいない。でもそれは違うかもしれない、私の頭が変になっているのかもしれない。私は二キロメートル分の歩道を歩き、徐々に気がおかしくなって、暗闇から抜け出せないまま、たった一つの光、この白熱電球の光に飛び込むむしけらのようなものにすぎないのかもしれない。
 ここが公園だと仮定して、自宅へと帰る路を私は感覚の内に思い出そうとしていた。右に曲がる……それから左……下水に落ちないように気をつけろ、するともっと見通しの良い大通りに出るはずだ。しかし最初の一歩が踏み出せない。私はなぜ迷ったままなのか。こういうことも考えた。夜は光を必要としないのだろうか。私の曖昧な記憶では、コンビニ・エンスストアは二十四時間営業しているし、それに通りには正真正銘の街灯が街路樹とともに設置されていたはず。それらを見落としてはいない。確かにここは真っ暗だ。この白熱電球を別にして、近くに灯がありそうなところはとりあえず見当たらない……。
 突然、私の後方から鉛の鉄槌を振り落とすときの金属どうしが立てるような不快な音がした。後ろを振り返るとそこには自転車があった。人が来た! 助かった。気付いてもらおうと白熱電球の下に立ち、小さく咳払いした。
 自転車が立ち止った。見たところ警官のようだ。くたびれた紺色の制服を身にまとい、腰のベルトにはおそらく拳銃だって忍ばせているだろう(ずんぐりした腰回りの姿形で何となく分かった)。警官は私を怪訝な表情で睨みながら、その身体に比べてずっと小さい自転車から飛び降りた。
 「一体こんな夜中に何をしているんだ?」夜の冷気が狂おしいほどだいぶ肌に染みる。
 「あなたこそ、こんな時間まで一人で夜警ですか。ご苦労なことです」
 「質問に答えろ。そこで何をしている?」私は道に迷ったんだ、とごく自然な表情を浮かべてざっくばらんにこれまでの経過を話した。警官らしき男はずっと険しい表情をしている。私はさすがに気持ちが焦ってきた。
 「私の話を聞いていますか、あなたは警官なんでしょう?」
 それには答えずに、警官はこう言った。「いいか、徘徊老人なら、署で保護して帰してやらんこともない。しかし、今のあんたは非常に明晰だ。話も筋が通っている。なぜこんなところで迷ったりしている?」
 「光がないんです」私は答えた。「私の眼に映るのは、この弱々しい白熱電灯の光のみ。よかったら大通りまで私を連れて行ってくれませんか」その時私は気付いた。警官の男は、自転車の灯なしでここまでたどりついたのだ。私は自転車の軋む音のみで察知したのだから。彼は暗闇が見えていたのだろうか?
 「大通りに出ることくらい造作もないさ。しかし、それで本当にあんたは家に帰れるのかね?」
 「というのは?」
 「もとからこの辺には街灯なんてありはしない。あったとしてもだ、今の世は非常態勢、夜中に光を灯すことは禁じられている。なぜお前はこんな光を出してしかもこんなところに突っ立っている? お前は敵なのか? 撃つぞ。答えろ。お前は何者なんだ?」
 そうして私は一気に光の中に飛び込んだ。心地よい光の味がした。

(了)

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。