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待つことの耐えられない重さ

 大学生一年生か二年生の頃、当時好きだった鷲田清一の『待つということ』(角川学芸出版)を読んだ。内容はほとんど覚えていない。しかしこれこそ哲学、自分のアタマでカンガエルこと、これが哲学なんだと思ってしごく影響を受けた。鷲田哲学。
 唯一覚えているのは、手紙に関するくだりである。
 『待つということ』が出版されたのは2006年。ガラケー全盛期の時代なので、この頃のわれわれはむろんメールでやり取りをしていた。意中の相手からの返信を待つあの時間! 「受信」状況を何回もチェックする。まだかな、まだかなと思う。そして相手からのメールが来たときの悦び、それからどこかほっとするやれやれ感の、ないまぜ状態。
 鷲田はそこで平安時代の話に飛ぶ。ケータイなんて持つ術もない平安人は、書簡で文書や和歌のやり取りをしていた。相手からの返事を待つ、この耐えがたい重さは、人類史が始まっていらいの、普遍的な現象なのだと思う。相手からの恋文を待つ、そのなんともいえない「待たされている、待ち侘びている」状態。
 鷲田は、それでも現代人は、「待つこと」にどんどん耐えられなくなっている、と診断する。どんどん短気に、ますます生き急いでいるために、ちょっとした待機、宙ぶらりんの時間を過ごすことにとてつもないストレスを感じてしまっているのはではないか、と。「待つ」ことの意義、「待つ」という行為がかつて持っていた精神的な豊かさに思いを馳せてみようーーそんな論調だったと思う。
 今やわれわれの多くはスマホのLINEを使用している。相手からの既読がつくかどうか、それをいつの間にか気にしまっているのが実状ではなかろうか。
 鷲田はあの本で、現代人であるわれわれに、どんな処方箋を書いていたっけ。

 と、これを書きながら、なんと自分は昔から変わらず待つことを苦手としているのだろう、と呆れる思いだ。ちっとも変わっていない。電話でもショートメールでもLINEでも、相手からの好意的な返事を期待して、そわそわしてしまう。そこまでひどく気にするというわけではない。ただやっぱり自分にとって重要で深刻な話題となると、その度合いはとんでもなく増す。待つことがしんどくなってくる。

 鷲田さんの処方箋はまったく思い出せないが、先日、中世哲学研究者の八木雄二さんの『天使はなぜ堕落するのか』(春秋社、2009)の最初の方を読んでいて、面白いことが書いてあった。中世の人々、特に「暗黒期」と形容されるペストや飢饉が大流行した中世末期の時代においては、人々は、この世で生き延びる、ましてや長生きすることに対してほとんど関心をいだいてなかった、というのだ。抱けなかったと言ってよい。いつ死ぬかわからないし、簡単に命を落としてしまう。そんなとき、神学者や信仰者は何を思ったか。現世の崩壊と、来世での復活を想ったのである。真剣に、大真面目に。

 アウグスティヌスは中世末期とは時代が外れるが、いずれにせよ彼やトマス・アクィナスといった神学者も例外なく、「最後の審判」という思想を共有していた。はやくこの世界が滅べばよい、そして最後の審判が下って、来世もしくは天国で救済されたい、と。中世思想とは、ある意味、現世を諦観する思想でもあったのだ。確固たる神と私(あるいは私たち)との関係性を探求する。そうすることによって、様々な苦しみに満ちた現実から離れて、病める心を癒やしていたのかもしれない。そういう側面は絶対にあると思う。この世が儚いからこそ、時を越えた神(つまりは宇宙)と「私」との神秘的で絶対的な繋がりを夢想した、あるいは信じた。そう思うと、中世思想とは、とても分かりやすいというか熾烈な時代状況に応じたごく自然な考えだったのだなぁと僕なんかは思うのである。

 話が長くなったが、要するにアウグスティヌスやトマスのような、歴史上の偉人とされている人でさえ、「最後の審判がくだるのを待っていた」のである。生きていることに執着をしない。それよりも、この世の終わりを待つ。それはなんと豊かで、またいっそう重く厳しい生き方なのだろう。待つ対象があまりに大きすぎる。

 そう考えると、最後の審判であれ、メールの受信であれ、待つということは、やはりどこまでいっても苦しさを伴うものなのかもしれない。ただし中世人の「待つ」は、壮大な希望、信仰の表れでもある。たしかにわれわれだって、相手からのできる限りの好意的な返事を「期待」する、「希望」する。でもそれは神様の信仰とはなんの関係もない。

 世界がゆっくり滅ぶことをうっすら期待している自分がいる。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』のような、哀しくて美しい世界の崩壊を。でも実際は、地球が滅ぶのって、もうそれは地味でしぬほど退屈で、それこそ耐えがたいほどにゆっくりとした緩慢な崩壊過程を辿るだろうな、という気がしないだろうか。まぁ、世界の崩壊とは言わないまでも、われわれはしばしば、個人の生を「あっけなく」終わらせたい、と思うものだ。「死ぬときはぽっくりと」というやつ。ただ、それを実現することのできる人もいるけど、多くの人はけっこうな度合いで苦しみながら最後の最後で息を引き取る、というような過程を辿るのではなかろうか。世界の終わりを待つ、あるいは自分の死を待つこと。それこそが生きることだ、メメント・モリだ、なんてカッコつけて言ってみたくもなるが、僕はいまのところ生きていることにとんでもなく執着している。

 待つことは苦しい。つらい。しかし、そうではない「待つこと」があるとすれば、是が非でも見つけたい。ポジティブな待つこと、苦しくない待つこと。そんなものはあるのだろうか。

追記
このあたり、ドゥルーズの初期著作である『マゾッホ紹介』に関連したことが書いてあった気がする。快楽の訪れを先延ばしすること、みたいな話。快楽が訪れるのをズラしてそれを待つことで、よりマゾヒスティックの度合いを高める……というような話だった気がするのだが、イマイチ思い出せない。
それから、これは前々からずっと読みたいのだが、シモーヌ・ヴェイユの『神を待ちのぞむ』は、本記事にストレートに関係したことが主題のひとつとして書かれているような気もする。いつ読むか、今でしょ(といって自分を追い込む)

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。