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(弱い)私は(強かった)私に祈りたい。

 タイトルのようなことを人生の命題として最近悶々と考えている。僕はほかでもない僕自身に祈りたい。弱い僕は、かつて強かった僕に祈りたい。
この命題は(まずは僕に対して、それから他の人にとっても)どこまで説得性を持つだろうか。ゆるりと考えてみる。
自分の話の場合には「僕」と、一般的な方向に話を向けたい場合は「私」と書いておく。

(弱い)私は(強かった)私に祈りたい。

「強い/弱い」「現在と過去」「祈り」「たい」という幾つもの展開しなければならないポイントはあるのだが、あくまでひとつの疑似-神学的なアイデアを導入することから始めたい。眉唾ものの話ではあるが、「かつて強かった私」には”神”の存在が、「現在の弱い私」にはイエスの存在が、ちらついてはいないかということだ。
 かつて十分に強かった自分(なにが”強い”のか?”強い/弱い”という表現に拘る必要はあるのか?という問いがすぐさま頭をもたげるが、大きな問題なので今は不問にする)は、本来の自分の在り方という気がする。というか、調子良い時の私=平常の私、であってくれ、という願望。これは、精神科医的には×とされる心の持ちようだ。調子がいい時の自分に期待しないこと、なんて僕を診てくれている精神科医からは言われる。むしろ、調子が悪いときの自分を基準にした方がよい、と。僕の出した命題は過去への郷愁ということで片づけられてしまう。
 むしろ、強かった私、最高に調子がいい時の私には、”神”が宿っていたのだ、と考えることはほとんど狂人に近いかもしれない……。僕には生来の気質があって、テンションが最高度の時には確かに“何か”が降臨したかのように感じる時もある。しかし、スピノザとライプニッツの哲学を無理やり援用してみると、ないことはない発想かもしれない。神性はこの私という個体にも宿る、というスピノザ哲学の解釈は(どこかで)読んだことがある。デカルトは「私」の外部に神の存在を発見するのだろうが、スピノザ哲学は内部性を重視した。
 「調子がいい」時の私は、ある種の”神性”を帯びている。私の内部に別の高次の存在者が乗り移っているのだ。だからそれは文字通り別人である私なのかもしれない。そこに距離がある。私はいつでも調子がいいわけではない。最高に調子がよい、”強い”私は、平時の私とは別なのだ。
 対して、現在、メンタルの問題だか、フィジカルの問題だか(あるいは両方)で調子を崩した私、”弱い”私には、イエスの存在が傍にあるということ。弱い人間こそ、彼が寄り添おうとする存在者である。僕は短絡的なので、すぐに遠藤周作におけるイエスのことを思い浮かべる(『イエスの生涯』『キリストの誕生』)。弱さに寄り添ってくれる、実は自分も人一倍弱い人間の、イエス。人は弱さによって連帯するのだろうか? 人間イエスはもちろん、私の弱さを慰めてくれる。

 私(主体)は、過去の私を郷愁の対象としてのみ眺めて「あの頃は良かった……」と繰り言を述べるべきではない。違うのだ。まず、現在の私は、私の持っている弱さを、十分に慰めることが必要である。自分の傍にイエスがいるのだ、と想定してもいいし、弱いことは悪くないことだと自分に言い聞かせたり、弱さを認識することこそが何らかの前進のきっかけになることなんだと強く思ってもいい。”私”の現在の弱さを書きだして分類すべきである。私は私の弱さを直視する勇気を持たなければならない(そうできる時は)。そこに、強さが回帰するはずである。私を外部化すること。私自身を観察する私という別の主体を観念することで、私自身は相対化され、弱さの分析が始まる。その弱さの分析を支えてくれるものが、困っている私を外から眺めるようにさせる仮定の存在者、イエスなのだ。諸主体をそれぞれ各自の反省へと向けるもの、そういう発言を夥しいほど残してきたのが、イエス・キリストの物語ではなかったか。

 こうして、祈りたいという気持ちは弱さの分析につながる。内省から反省への転換、あるいは前進である。かつて強かった自分の像は、自分を照らしてくれる目標である。私は高みに対して祈る。やはりかつての私は私の祈りの向かう先であったのだ。イエス(クリスチャン上のでなくてもよい、イエスの姿は人によって千差万別だと思う。遠藤周作の『深い河』に出てくるモチーフのように、一個のたまねぎであってもいいのだ!)の支援を通して私は、一気に神の方向に向かう。この記述の方針は、前に僕が上巻だけ読んだカール・バルトの『ローマ書購解』の骨子に近いような気もする。高みに向かって祈るだけではだめなのだ。おそらく不安的な足元をきっと見つめる必要があるのだろう。その時生まれるのは、外部の”完璧”なる神なのか、内なる”高み”の神なのか。夜明けの光は近い。


セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。