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天皇諡号(おくり名)に秘めた古代史の真実 淡海三船のメッセージ ①『仲哀天皇』…金銀に目が眩んだ神功皇后?

 前稿でご案内した『仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)』に込められた【歴史のメッセージ】について紹介します。
 この『仲哀天皇』は、在位は192年だとされています。この天皇については、皇后が、あの…『神功皇后』なのです。日本武尊の第二子であり、この天皇の時代はもっぱら、その后『神功皇后』の逸話ばかりが伝えられることになっています。
 では『仲哀天皇』の御代には何があったのでしょうか?

『御歴代百廿一天皇御尊影』より

さて、仲哀天皇は、成務天皇48年に立太子する。先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊(神功皇后)を皇后とした。これより前に妃としていた従妹の大中姫命との間に麛坂皇子・忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在した。筑紫の橿日宮に至ると、突然、后の『神功皇后』が、神がかったという。,新羅を征討すべしとの託宣を得たと神功皇后が主張した。この時、同行していたのが大臣・武内宿祢(たけうつのすくね)である(蘇我氏の祖先とも言われる)。
 『仲哀天皇』は、信用せずに一人で熊襲征伐に向かったが、神の怒りに遇い急死したという。別伝では熊襲の矢に当たり死んだともいう。
 すなわち后『神功皇后』とは、二人の仲は哀しい別れになってしまったのである。
 この件については、『日本書紀』「仲哀天皇八年秋九月の条」に群臣に熊襲を討つ計画を協議させた際に、神がかった神功皇后は神に託されたとして
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないことを憂うのですか。熊襲には何も無いのです。…この国よりもはるかに豊かな宝のある国、例えば乙女の眉引きのような形をして、港に面した国があります。服も彩なる金銀彩色が、多くにその国にあります。これを𣑥衾新羅の国といいます。」
とある。
 これに類する記事は、『古事記』(「仲哀天王」)にも見られ、
『西方に国あり。金銀を始めとして眼の輝炎耀く種々の珍宝、多くその国にあり。』
となっている。同様な記事は、『播磨国風土記』にも出ている。
 極め付きの記事は、『日本書紀』(神功皇后の新羅征討)の記録である。
★★途中です。続きます。お待ちください★★

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