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国宝金印『漢委奴国王』はなぜ?【奴国】とはなにだったのか…新たな歴史的解釈【3000㎞の感動の旅物語が・・】

【奴】という漢字は古来、【な】とは決して読まない。      【ぬ】、【ど】の読みしかない。
このことは、現代でも読まれる『奴国』=【なこく】はあり得ないことをまず指摘しておく。
 それよりも大事なことは、なぜ、『奴国』は、後漢の光武帝から    西暦57年に金印を賜ったのかの、歴史的考察である。
 西暦57年と言えば、卑弥呼の時代よりも200年近く遡った時代なのです。
 【奴】の意味は、奴婢や奴隷を指す。極めて単純に『奴(婢の)国』と言えるかも知れない。
 しかしこの頃の中国情勢を鑑みると、あながち否定できないのである。
 
 それでは、これを順次説明していこう。
★★西暦8-23年 中国『新』の時代。王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てたくにである。短命であったが、
 ・小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止
 ・奴婢を、家の子や召使といった意味の「私属」と呼び、その売買を禁止
というように、奴婢や奴隷が固定化された時代であった。
★★西暦25年ー220年 後漢が起きる。
 後漢光武帝(紀元前6年 - 57年)は、
 ・奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、生産力向上と民心の獲得 
  を図った。
 ・東方では朝鮮半島の楽浪郡で後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6
  年)に討ち、郡県制にる直接支配をおこなう。
 ・半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡
  に属させる。
以上が中国の当時の情勢である。
 要は、後漢光武帝が奴婢・奴隷を開放して自由民にさせたのである。
 奴国の朝賀について『後漢書倭伝』には、次のように書かれている。
【建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬】
      ここで、【朝賀】朝廷に出向いて祝を述べること
 では、金印『漢委奴国王』はどのようにして『奴国』に下賜されたのか?
これを知るには、後漢光武帝への『奴国』朝賀使節の足取りを辿ってみよう。
 かれらは、九州・『奴国』を旅立ち、遠路遥々、『洛陽』(下図)まで行っている。

朝貢使節が赴いた洛陽

今から、2000年近く前に海路・陸路を経て中国大陸の奥まで赴いたのである。片道2000km以上の行程をわざわざ光武帝に会うためである。
言い換えれば、そこまでして『奴国』朝貢使節は後漢光武帝に是非とも会って、新年の挨拶
『奴婢・奴隷解放のお礼
自分たちが営む国・奴国
を報告したかったのでしょう!
                
 志賀の島で発見された金印にはこのような(ある意味)晴れやかな奴国の感動の物語が隠れていたのです。
 歴史は新たな解釈が必要なのです。
 本記事もその一つかもしれません。

そうやってもう一度『魏志倭人伝』を読むと、3世紀当時の『倭国』には、奴国と名の付く国が多くあります。
 想像を逞しくすると、中国各地から解放された奴婢たちが、海を越えて新天地を求めてやって来ていたのかもしれません。
★★『魏志倭人伝』に見る『奴国』
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡


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