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日本政治の本質的欠陥…奈良時代から変わらぬ・百済・文官支配

 奈良時代には、朝鮮半島から多くの渡来人と呼ぶ人達が日本列島にやって来た。特徴的なのは、百済から、新羅からが多くを占めていたことである。
 『百済』は早くから中国と外交関係を持ち、仏教の導入など文化程度が中国大陸と似ていたため漢字文化も持ち合わせていた。
 『新羅』は、この国は初期には中国との国交もほとんど持たなかった。 一方で当時の最先端技術(特に【鉄】)や陶器、瓦などの文化を日本に持ち込んだのである。
 しかし『新羅人』は、文字も持っていなかったため、
 ★『百済人』が行政文書や官僚支配の制度に組み込まれて行った。
例えば、奈良の大仏は、『金属技術を持たない百済人』には到底完成させることは不可能であり、『新羅系』の技術者たちが狩り出された訳である。
 でも完成後に文書が作成される時点では、文書に長けていた『百済役人』の名前が残されたことになる。
 実働を伴わなくとも、書類上『霞が関役人』の担当役人の名が記されている訳である。
 事情は、『法隆寺金堂』の釈迦三尊像、薬師如来像も同じであり、仏像担当であった、『鳥(止利)仏師』の名が刻まれる。
 現場の『新羅技術者』などは当時、名前など持っていないのは時代から見てご理解いただけると思います。
 こうして平城京(今の霞が関)には、百済の役人(東大に相当する学校出?)達に支配権があったという事です。
 機会があればもう少し詳しく解説いたします。


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