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古代出雲はキリスト教国になっていた! …青谷上寺地遺跡の謎ー弥生人の反撃!

 出雲がキリスト教国にどのようにしてなったのか?
この謎を解く鍵は、鳥取市にある『青谷上寺地遺跡』にあります。この遺跡には、驚くべき事実がありました。発掘の結果、
2世紀後半、殺傷痕のある骨も含め、大量の人骨が溝に散乱していた」
事が明らかになったのです。

青谷上寺遺跡(赤枠)

 2世紀後半と言えば弥生時代ですが、戦ったとは言え、弥生人がなぜこのように殺傷された人骨を放置し、その遺骨が散乱していたのか。
 この謎を解く上で興味ある事実は、
 ★遺伝子情報を解析可能な32体のうち、31体が渡来系であった
 ★出土した木製の板に『船団』が描かれていた(下図2枚)

出土した板(60㎝位)
板に描かれていた船団のスケッチ

この板に描かれた船団の図から次のようにも推測されます。
 すなわちこの(遺跡付近の)地域に海上から船団が到来し、定住していた弥生人と戦いになった…。弥生人から見れば、素性の分からない渡来人を見て恐怖を覚えた可能性があります
 上の出土した板は、船団を見つけた弥生人が描いて伝えた『敵の船団図』だったかもしれません。
 渡来人が船団を組んで到来した目的は何だったのでしょうか?
 これには、彼らが出発した朝鮮半島の南部の当時の情勢と深く関係しているようです。一部地域で人口が急に増加したたため、食料を確保するためには、新しい『天地』を求めて海に漕ぎ出したのでしょう。
 もちろん、異なった風習や風俗を持ち、言葉も異なるとすれば容易に互いを理解することは不可能だったでしょう。
 特に、【宗教】を持たなかった弥生人と持っていた渡来人は、ある意味『異教徒』の集団として見なされた可能性があります。
 ここで初稿の『古代出雲はキリスト教国になっていた!』で、出雲が古代にキリスト教の国になっていたことを示しました
 人類の歴史では、異教徒であり、相互に理解が不能な関係の下では、激しい憎悪を燃やして【残虐性】を発揮することもありえたのです。
 もちろん、渡来したキリスト教徒達は、進んだ技術や武器・道具の持ち主でしたから、上陸した渡来のキリスト教徒は容易に弥生人から地域の土地を奪ってしまったかもしれません。
 この頃、それまでになく、弥生人たちは石鏃(やじり)の製作を急増させています。鏃は敵を近距離から襲うために用いられたのでしょう。
 青谷寺遺跡は、1.5キロメートル四方の青谷平野の中央部に位置し、当時の地形の高低を利用した遺構が残され、地形の高かったところでは無数の土坑群やピット(立て坑)が検出されているが、周辺の低湿地では水田が確認されている。
 ここには、弥生人たちが棲み稲作に励んでいたと想像されます。
 ここに『キリスト教徒』達が渡来して、弥生人たちは追い立てられてしまった…。
 その結果、弥生人の反撃と襲撃が開始されてしまったのではないでしょうか?
 まさに【虐殺】の絵図になったかも知れません。

散乱した人骨


 この戦いは、この地域だけにとどまっていた訳では無さそうです。
 吉野ケ里遺跡や瀬戸内、近畿地方にも及んでいたようです。
 平地から追い出された弥生人たちは、高い場所に居を移し、自分達を護るために山城のような『高地性集落』を造ったのです。
 2世紀の後半ですから中国の史書にも著された『倭国の争乱』だったのでしょう。
 それにしても民族をかけての『凄惨な戦いの時代』が繰り広げられたのです。
(参照した写真などは、「鳥取県埋蔵文化センター」からのものです)


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