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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった   10.正確に読む:『水行十日陸行一月』その3 邪馬台国は何処?

 さて、その2までで、『水行十日陸行一月』の正確な読みが(倭人伝の誤記論を持ち出さずに)得られたことになりました。
 これに基づいて『倭人の条』を読んで無理があれば、引き返せばいい訳です。何もここまでの議論が「絶対に正しい」などと主張することには意味がありません。
 もしこの通り、内容を読み進めて矛盾が無ければ正解に近づいた…と考えればいい訳です。
 ここで、『水行十日陸行一月』について可能性のある解釈が一つ得られましたが、現時点で他の有力な解釈は無いことに留意します。
 『邪馬台国』と『卑弥呼』についての記述は、
 ★★南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月★★
と記されています。
 素直に読めば、
「南に行けば邪馬台国に至る。女王が住む所は『水行十日陸行一月』で行くことが出来る」
となります。他に解釈があるとするなら、上の解釈で合理的な答え(邪馬台国と卑弥呼の位置関係)が得られない場合に再度検討しなおしましょう。
 何も、
  C.『邪馬台国=卑弥呼の都する地』
にこだわる必要もありません。
 なぜなら『邪馬台国』は、この国を中心として百余国からなる連合でした。これは、『漢書』地理誌に
 「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す」
の記述がある通りである。詳しくは調べてみて下さい。
 これから強大な国『邪馬台国』が一つ存在していたという事では無かったのです。例えば、西日本全体を一つの国として統治していた…などという事はありませんでした。
 この事からも、百余国の女王として君臨していた様子が窺えますから、必ずしも
 ★★卑弥呼の住む国=邪馬台国
と考える方が無理筋で、素直に
 ★邪馬台国から卑弥呼の地まで『水行十日陸行一月』
として考える方がより、一般的な解釈です。
 ここまで来ると、面白い事が判明します。
 邪馬台国=大和(奈良の地)とすると、大和(奈良盆地付近)からいきなり船で十日行くことは無い…という事実です。
 元々、(邪馬台国=大和)説は、どうも
 ★邪馬台国を【やまたいこく】などと読んだからに過ぎないようです。
しかし、陳寿の頃、『馬』の読みは、【ば】であった可能性の方が高いのです。騎馬、司馬遷、馬耳東風などどれも【ま】と読むことはありませんでした。精々、『邪馬台国』は、【やば・・】と読んだはずです。
 もう一つは、実はこの当時、『奈良盆地は海の底』であったことをすでにいくつかの記事で書いた通りです。『クジラが泳いだ奈良盆地』の記事など参照下さい。
 どの観点から見ても『邪馬台国』=『大和』は破綻した主張なのです。
 もし、上記以外に『邪馬台国』=近畿(大和以外) とするなら根拠を示した主張をしなければ研究者としての主張にはなりません。
 わが国の歴史研究の双璧が『九州説』と『近畿説』を巡って長年論争をしていた…なんて茶番劇以外の何物でもありません。
 ここで
 ★邪馬=【やば】
とすると新たな有力な展開が可能になります。【邪】という漢字は【耶】と同じ漢字(耶は邪の俗字)なのです(辞書を調べてみましょう)。
 そう、皆さんよくご存じの九州大分県西北部にある『耶馬地方』を意味しています。【耶馬渓】というのは、台地に出来た【渓谷】を意味しますから
【耶馬台】にある【国】、すなわち『邪(耶)馬台国』に過ぎません。
 以上、丁寧に議論を進めると、
 ★近畿説はナンセンス(根拠無し)
 ★九州説が正しい
であり、九州国東半島付近から瀬戸内海に船で行ける訳です。
 次には、卑弥呼の都する(住む)地までご案内します。


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