私は春を抱きしめていたい
線路沿いをひとり歩く帰り道。左手のフェンス越しに電車が私とすれ違ったり追い越したりする。右手では鈍い灯りの古書店の、店先のワゴンの雑誌がめくれる。生ぬるい風だ。やっと、春がきた。
ホームには若い女性。疲れた顔をしている。ちらりと目があったがロマンスのかけらもない。鞄を抱きかかえるようにしてホームの先に立ち、電車のくるのを待ち侘びる彼女の後ろで、私は誰も腰掛けようとしないつめたいベンチに腰掛ける。線路を跨いで繁華街にはネオンサインと酔いどれの影。いつもならそのにぎわいの中へ思わず駆け込んで行きたくなる私だが、今夜はじっと黙りこんでいたかった。こんこんと咳が出た。やがて向こう岸のにぎわいを掻き消すように電車がすべりこんできた。女性のコートの裾が揺れた。
車内には偶然にも空席があったのでどかりと腰を下ろした。私の皮膚まで色あせてしまいそうな真っ白な照明が、車内をすみずみまで明るくしている。窓の外、ホームに居残る幾人かの労働者と、看板と、中吊り広告と、すべて意味のない風景、文字の波、タイポグラフィ。右手に掴んだiPhoneの画面に指をすべらせる。かつかつと爪の音がする。読みもしないネットの記事を無意識にスクロールさせて、自分も風景になろうとつとめる。
やがて終着駅についた。私はゆらりと立ち上がってホームへ降りる。ぞろぞろと列をなしてエスカレーターへ行き詰まる人々。その横の階段をかつかつと上がって行く私。駅の構内、そこらじゅうけだるさでいっぱいだった。
駅を出ると暗闇。電信柱の灯りだけがふわりふわりと行く先を照らしている。東京の人はみんな歩くのが速い。私はいつも誰かの背中が小さくなるのを見ているばかり。Y字路では青信号が点滅している。横断歩道の上を少しだけ速く歩いた。やがて空が桃色に変わった。電線のあいだを縫うように伸びた桜の枝が、夜空を埋め尽くすほどに花開いている。セブンイレブンの看板に照らされて、夜桜はまるで初めて見たストリップショーのステージのように妖しく幻想的に闇の中に浮かび上がっている。思わず立ち止まった。生あたたかいやさしさが心の内で針を刺された水風船のようにじわりと広がって行った。背後でセブンイレブンの駐車場からバイクが一台走り出て行く音がした。
このむんとした春のにおいはふるさとのにおいに少し似ている。この街がまた好きになった。そのぶん余計に淋しくなった。突然泣きたくなった。さよならがこんなに簡単だなんて。いっそこのまま、ここで夜になれたなら……。見る限り桜並木はずっと続いている。ずっと先の、この路が闇に途切れるまで、ずっと、私の背中が、私を置き去りにして遠ざかって行くような気がした。
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