Mist
酔っぱらったときに書きます。
懐かしいときに書きます。
わけもなく撮ったもの。
妄想癖が悪化したときに書きます。
人目をはばかる。
街に灯りが滲むころ、私は生ぬるい風を浴びながら自転車を走らせていた。雑踏を避け、信号を待ち、ふらついたり、ときどき手で自転車を押して歩いたりしながら、大きな駅を囲むビル群を抜ける。歩道と車道を行き来しながら、彼岸と此岸との境で眠るあの子のことを考えていた。このままどこまでも行けそうな気がしたが、そんな気分の夜にかぎって、少しだけ遠回りするくらいがちょうどいいだろう。 菜の花の伸びきった河原を横目に、古いランドリーを過ぎれば、もうネオンも人々も見えなくなった。辺りは深い海の底
霧雨の朝にそっと目醒めて、あなたの眠りつづける部屋の片隅で、私は白湯をすすっていた。いつもならすぐ傍の学校から聞こえてくる合唱の声が、今日は水を打ったように静かで、夜明けとともに置き去りにされた私の周りだけ、時が止まってしまったのではないかと不安になる。 暗闇の中に目を細めてみると、どうしてもあなたが丸い瞳でこちらを覗いているような気がして、思わずおはよう、と声をかけてみる。が、やはり返事はない。あくびをすることも、伸びをすることもなく、あなたはいつまでも目をつぶったまま。
朝陽の中で鋭く光る、あなたの灰色のまなざしが好きでした。気高く、清潔で、臆病なあなたは、孤独を愛し、暗闇の中でこそ安らげる存在だと思っていたけれど、実は誰より淋しがり屋で、誰より他人を愛していたのかもしれません。ときどき聞こえるあなたの掠れた声は、人恋しさにすすり泣いていたせいなのでしょうか。 私はいつも、鏡を覗き込むような気持ちで、あなたの姿を追いかけていました。不器用で、少し癖っ毛のあなたに、どこか自分を重ね合わせていたのです。どんなに孤独が似合う人でも、ひとりぼっちが
私はいつだってはじまりが怖いんです。 ランドセルに背負われて歩いた桜の路も、いつか夕暮れの帰り路に変わってしまうし、暗闇に咲いた線香花火も、いつか淋しい静寂に戻ってしまう。それに、出逢ったはずの人たちも、みんな、いつか、思い出に……。 空っぽだった私の心を、あたたかく埋めていった優しいものたちが、時に流されて失われてしまう。それがあまりに自然で、だからこそ抗えず、残酷で、めまいがする。朝陽は当たり前のように身体に馴染むのに、夜はいつまでも私を逃がしてくれない。 若さも、季
誰にも会わないまま、人々の生活を窓から見守るばかりの夕暮れに、私は友人と電話の約束をした。陽が沈んでからも、しばらく窓辺のベッドに腰掛けていると、何も聞こえない夜のはじまりが頬につめたかった。 質素な夕餉をこしらえて、熱い風呂に入り、それでも少し時間があまったので、文庫本を開いてみたが、活字の群れは目の上を滑り、そうしているうちに約束の時間がきた。 小さな丸いグラスに氷を落として、安い酒を注いだ。大して美味くもないけれど、今の私にはこんな酒が似合いだろう。それに酒なんて
窓の向こうの、雲ひとつない水色の景色を見ていると、いてもたってもいられなかった。おろしたてのシャツと、一年ぶりに履く黒いスニーカー。外へ出ると、街はすっかり夏だった。 少し歩けば汗がにじむような、ひりつく太陽が懐かしくて嬉しくなる。白く照りつけられた、コントラストの強い真昼の風景。道端のフェンスに絡まった植物の葉陰で、一匹の蜂が羽を休めている。 夏という舞台の上では、普段歩いている近所の道さえ、心踊る旅路のようだ。すれ違う学生服や、畑の奥の麦わら帽、公園の蛇口で遊ぶ小
また夏がくる。そんな当たり前のことが私にはどうしようもないくらい嬉しくて、むやみに窓をあけて、風の匂いをかいだりして、今日も一日が過ぎてゆく。 だけど、夏がきたからって、何をしたいわけでもない。もちろん海へ行ったり、花火をしたり、お祭りの熱気につつまれたりするような、ありきたりな煌めきに未練がないわけではないし、久しぶりに帰った田舎の空港の静けさに驚いたり、通りのない海沿いの道で車を飛ばしたり、蚊取り線香片手に墓参りをしたりするような、郷愁に飢えているのも確かではある。
ベッドに落ちた陽だまりの中で幸福に目を醒ました。忘れられない一年の最後の一日は、いつもとおんなじだった。エアコンをつけっぱなしの部屋にいると気づかないけれど、窓を開けると、風が冷たい。庭のバジルもすっかり枯れてしまった。コーヒーが落ちるまでのあいだ、何気なくテレビをつけて、消す。今夜は大寒波がくるらしい。 子供の頃、正月といえば決まって祖母の家に行き、山のようなご馳走を食べ、大人たちの会話するようすを不思議に眺め、お年玉をもらい、お屠蘇をのみ、かしこまった挨拶をするのが恒例
「今度、オンライン忘年会しよう」。 12月に入って、地元の友人のグループラインでそんな呼びかけがあった。幽霊部員も含めた10人ほどのメンバーは、ほとんどが幼馴染。進学や就職で離れ離れになったかと思えば、旅先や同窓会で再会したり、疎遠と親密を繰り返しながらゆるやかな関係をつづけている。 私たちは、会えばいつだって昔に戻ることができた。目の前には、中学校時代のみんなが座っているのだ。少しだけ近況報告なんかをしたら、あとは結局思い出話に終始する。飲み疲れてやることといえば、トラ
はめ殺しの窓には、甘いカクテル色の空が広がっている。庭のニームの木が揺れている。蝉の声は少し遠くなった。私はベッドに寝そべって、眼鏡を外す。風鈴の音が聴こえる。一昨年の夏祭りで買ったものだ。か細くて低い音が、まるであの娘の声みたいで心地よい。 いつのまにか夏がきた。夏がきたっていうのに、私はこの部屋に籠ったまま。誰とも会わずに、誰とも話さずに、時折街に出ても、幽霊のようにさまよい歩くだけ。あの頃みたいな冒険は、もうできないのだろうか。重い荷物を背負って知らない土地を歩いたり
いつか誰かのものになると知りながら、私たちが見守ってきた白い花は、いま、誰かの手に摘まれて、遠くへ行ってしまおうとしている。せめてその人が、誰より優しい人であったなら。せめてその人が、誰より誠実な人であったなら……。 君の心は、君のものだ。私たちはこれからも、そっと見守っていてあげることしかできやしない。カラスや野良猫に咥え去られる鳥の雛に、人間が決して手を出してはならないように。 大切だからこそ、君にはただ、幸せになってほしかった。そうだ、君と離れるのはもちろん淋しいけ
小さくわかれたぼくのふるさとが、いよいよこの街の片隅で灯りをともす。冷たかったこの街がなつかしいろに染め上げられて、いつか本当にぼくのふるさとみたいになるかもしれないのだ。 君はいま、もやもやとした不安の中にいるだろう。その先には、幽かに期待も見えるだろう。けれどやっぱり、不安の方が大きいはずだ。それもそのはず、トンネルの向こうがどんなに晴れわたった景色だとわかっていても、トンネルを抜けて、自分の目で確かめるまでは、夢も希望もみんな不安を装うものだ。そうしていざ、何でもない
歌うことが好きだった。次の言葉を探さなくてよいからだ。あの頃の私はいつも言葉に迷っていて、おはようの一言にさえ逡巡して、ぐずぐずと夕暮れを迎えていた。お酒が飲みたいのではなくて、酔わなくちゃ目を合わせられなかったんだ。夜が好きなのではなくて、逃げ込める場所がそこしかなかったんだ。 誰も聴いてはくれないけれど、色の変わる大きなフォントに一人で想いを託して、今日と明日との境界線上でなんとか生きていた。清い声も、美しい羽もないけれど、煙草の匂いとエアコンの風が充満した薄暗い鳥籠の
二度と戻れない夜が終わって、二人は朝焼けのレストラン。テーブルの新聞に目を落とすと、今日も世情は暗い。ウェイトレスが去ったあとには、美しい沈黙だけが残る。フォークの先でつついた目玉焼きがやぶれ、涙のように黄身がこぼれる。僕もこんな風に泣いてやろうか迷ったけれど、泣かなかった。どうしたって君は振り返らないから、せめて思い出を飾ることに決めたのだ。 初雪が舞い始めた。国道を走る車の流れは途切れることがない。君は頬杖をついて窓の外を眺めている。いつかこんな日があったねって、頰が緩
裏切る方は、いつだって気分がいい。罪の匂いのするコートを羽織って、優しい怒りの声も遠いこだまに変えながら、気丈なふりで、前を向いて歩けばいいのだから。 裏切られる方は、いつだって暗闇。許す、許さないのかけられた天秤を、心の中で何度も揺らしながら、それでも愛する人の靴音を待ち侘びる。 どんなに疲れて眠りかけた夜も、裏切りの予感が漂えば、身体じゅうに紫色の火が灯る。昨日のことも、明日のこともどうでもよくなって、この夜に決着をつけてしまいたい一心になる。 たった一言、欲しかっ