今夜でおしまい

8月31日。
こんなに淋しい数字の並びが、ほかにあるだろうか。
一日の終わりは、またあたらしい一日のはじまり。冬が終われば春がきて、夜が立ち去れば朝が駆け寄ってくる。本当は、時の流れの中に、季節のうつろいの中に、終わりなんてない。
だからこれから私が語ることは、本当ではない。真実ではないのだ。単なるひとりの少年の、何にもならないつぶやきである。どうしようもなく孤独だった思い出の切れ端である。

カレンダーに用意された365個の升目の中で、8月31日という、このたった一日だけは、平気ではいられない。それが夏休みの最後の一日だったころも、そうでなくなった今も、少年を永遠に悩ませる一日である。
たとえばそれが大晦日の一日だったなら、明けてしまえばばかみたいににぎやかな正月が待っているだけだし、たとえばそれが誕生日の前の一日だったなら、年を重ねる恐怖と大人になったあきらめが心の天秤を幽かに揺らすだけだろう。
けれども8月31日ときたら、その次に待っているのはきつくネクタイを締めた強がりの大人みたいに、救いようのない9月1日なのだ。死にたくなる人の気持ちもわからなくない。

8月31日のあとに、もう一度夏がきたら。
めくった暦の裏に、二度目の8月がきたら。
そうしたらどんなにいいだろう。

あなたがもしも恋をして、はじめての朝がきて、甘いワインのような夜を数えきれないくらい過ごしたとして。それである日突然、もう永遠に逢えないと告げられたら、どう思うだろう?
それくらい、8月の終わりはかなしくて、理不尽で、だけど必然なのだ。
夏が終わるくらいなら、はじめから夏なんてこなければいい。そんな風に言えるのは、どうしたって夏がくるのを知っているから。
いつか別れのときがくるなら、はじめから恋なんてしなければいい。そんな風に割り切れる人が、いったいどれくらいいるだろう。
だって、淋しいよ。ひとりは、淋しいよ。

あの日私は孤独だった。涙にしめった夏の終わりが幾度もあった。こんな風に過ぎて行くのなら、生きていたってしかたがないと思うこともあった。
あのころから私は夏が好きで、好きだからこそ、何もできない自分が嫌で。夏がはじまる前は、今年こそは何か起きるかもしれないと密かに期待し、その期待すら誰にも話すことのないまま誕生日ケーキの蝋燭みたいに夢は9月の風に吹き消される。
一方で、あの娘も、クラスメイトも、どんどん大人になっていった。夏が彼らを大人にしたのだ。私はひとり季節の牢獄に取り残された。
好きな子とは一言も話せなくなったし、子供でいるのが恥ずかしいまま、大人になりきれずもどかしい日々。
私は8月31日がきらいだった。あんなに好きな8月を連れ去る、最後の口づけみたいな一日が、たまらなく。

誰もを見送りながら、何もかもに置いてきぼりにされた私が、今、ここにいる。どうやってあの夏の終わりを乗り切れたのか、今はもう、憶えていない。
ただひとつ、私は生きた。ただ、生きた。意味もなく、ひたすら。それは、ただ死ななかっただけだというのが正しいのかもしれない。けれど揺られて流れついて、どうにか明日へ、立ち向かえるようになった。
あの8月の最後の一日を、勝手に自らの命日に定めていたなら、私はもう悔やむことも懐かしむこともできなくなっていたはずだ。未来が明るいなんていう保証はないし、私は今も暗闇のさなかかもしれない。
それでも生きてさえいれば、懐かしさというカクテルの中に、何もかも溶かし込んでしまえる。思い出に酔うあのくすぐったさは、生き通した者にしか訪れない。

絶望なんていつだってできる。
だったらそんなありふれた楽しみは、もう少し人生の夕暮れに残しておいてもいいのではないだろうか。

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