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距離、 見えないもの 見ていたはずのもの

3月20日、私と福田由美エリカは展示を見に行った帰りにハンバーガーを食べながら今後の制作について話し合った。会う数日前に彼女からアメリカの大学院に合格したことを聞いたため、「離れていても共同でできる作品作りとは何か」が私たちの会話の起点だったように思う。そこから「継続可能な制作の形」が最も大事だという結論に至り、二人が共通で毎日とっている行動について探し始めた。そうして私たちは互いに毎日川沿いを散歩していることに気づいた。

次の日から私たちは散歩する自分の足元を撮影した短い動画を送り合うことにした。ただ歩いている動画のやりとりではあるが、相手がその日、どんな時間帯にどんな服装でどのような道を歩いているのかが見られるというのは私にとって大きなことだった。
動画を送り合い始めて約一週間後、テレビの会見で「外出自粛を要請」という言葉が用いられ、SNSでも外出の危険性を語る情報が多く見られるようになった。それでも変わらず私たちは散歩した。4月になって緊急事態宣言が発令されても変わらず散歩していた。

由美さんの投稿にも書かれているが、私たちの散歩の送り合いの結果生まれたものは「コミュニケーションに近い感覚」だ。会話のようなコミュニケーションとは違い、相手は自分が投げたものに対して打ち返してくれるわけではない。歩いている様やその日の服装や天気みたいなものは、実際会って話していると触れる必要性の薄いもので、大して気にも留めないものである。しかし、リモートワークになり外出も自粛している今、私は確実にそういったものに飢えている気がする。もちろん散歩をしていると色々な人を見かける。彼らの歩く様子や服装も見ることができるけれど、私にとって大事なのは自分と近い距離の人たちの些細な変化や日常的な姿だ。

私はこの1ヶ月ほど、「今が今じゃなかったら」を考えている。
もし今が大学1年生のちょうど上京するタイミングだったら。上京しなかったかもしれない。
中学生の頃だったら。高校生の頃だったら。私は中高時代に家庭環境が大きく変化するタイミングが何度かあり、家にいることに苦痛を覚え、かといって学校に行くことも興味がなく、画塾で絵を描くことと美術館に行くことだけに生きがいを見出していた。そんな時にどこにも行けなくなってしまったら、大好きな美術館がバタバタと休館していったら随分気を病んでいたのではないかと思う。

今の私は、急に外に出られなくなって、自分と社会との接続をうまく感じられなくなっている。SNSで色々な人の日常を覗くことができるけれど、アイコンの写真と活字と切り取られた日常の一部は見ていてもあまり存在に実感がわかない。活字でなく手書きの文字だったらもっと違ったのかもしれない。

とにかく散歩の動画を送り合うという取り組みは、作品や制作というよりも新たな形のコミュニケーションとなった。まだ送り合い始めて1ヶ月程度しか経っていない。今後も継続して考えていきたいと思う。

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