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タナトスの定め

私はいかなるときも、死に対して肯定的である。


明けることのないトンネルを探りながら歩く我々を、徒労から救うものこそが死であるからだ。

それでは、我々はいかにして死ぬべきなのだろうか。
死の最も尊厳たる長所、それは、我々が、我々の意思で自ら死を選ぶそのときに現れる。

自殺!
ああ、甘美なる、フィクション。


自殺が有効なのは、自死に取り憑かれ・酔いしれた当人のみである。
あいつが死んだとなれば、興醒めするのは周囲のほうなのだ。
葬式、カネ、保険……頑固とした「現実」「生活」が列を作って待っている。

いかにして死ぬか、という議論は誠に不毛である。

我々は、生ながら死なねばならぬ。
生きているものは、生きている以上、死んでいるとは言い難い。
死んでいるものは、死んでいる以上、生きているとは言い難い。
この二つはどのようにして両立するのか?

何も廃人になろうと唱えているのではない。

疑似的な死。
タナトス…………死の情動!

生を超えた暴力的な快楽こそが、我々を生きながらに殺すのだ。

生きるべきか死ぬべきか。マクベス的悲観は無用の長物である。
我々が考えるべきは、いかにして生きながら死ぬか、、、、、、、、、、、、、
それだけなのである。

ここ、という頂点まで登りつめれば話は早い。
そここそが我々の墓場なのだ。


きたるその日の為

我々はストリクトでなければならない。
我々はストリクトでなければならない。

……本当に?



自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。

寺山修司『青少年のための自殺入門』

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