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くも膜下出血当日『後頭部の鈍い振動』

自分の備忘録として当日の様子を時系列にメモ。しかし、記憶が欠落している部分があり、その部分は家族から収集した情報を元に記載しています。


発症時の様子

朝、化粧をしていた時だ。頭の後ろに「ズン」という鈍い何かを感じた。
初めての事だったので、「これは、ちょっとおかしい」と感じた。
ちょうど8時半前。
病院へ行こうと思うが、車で10分ほどのところにいる母に迎えに来てもらおうかとなぜか考えた(なぜ、そう考えたのかは分からない)。
母に電話するも出ず、とりあえず保険証だけ確認して、車で近くの内科を目指して車を出した。
この時は、ひどい熱中症かなぁという程度だった。

アクセルが踏めない

だが、一つ目の信号に止まっていて、発進しようとしてただならぬ気配を感じた。
(あ、足が動かない…)
そう、アクセルが踏めないのだ。
後ろの車からクラクションが鳴らされる。
(ごめんねー、ぬかしていってー)
ただ、私は病院へ行かなければいけない・・
そうこうしているうちに車が動き出した。
トロトロトロトロ
幸い、手は動かすことができた。
トロトロトロトロ
「プップー」と何度もクラクションを鳴らされる。
横を通るときに顔を見られる
(ごめんねー)
そう、もちろん、信号は・・・
一つの点滅信号は無視。
もう一つの大きな交差点はラッキーにも青だった。
そして幸い、家が高台にあるので、病院までは下り坂だった。
途中にコンビニもあり、友人たちには
「危ないな!途中で止まろうと思わなかったのか?」と聞かれたが、そんな発想にはならない。
(これはおかしい。病院へ行って、先生に救急車を呼んでもらおう)
おいおい、自分で呼べばいいんじゃないか?と後には思うのだが、病院の先生に呼んでもらった方が早くくるのではないか?と考えていた。

どれだけ時間がかかったのか、通常5分ぐらいで到着するところを20分近くはかかったかもしれない。

なんとか病院へ到着

病院が見えてきた!
良かった、もう少し!
(あ、でも、駐車場空いてるかな?)
(あ、良かった、一番奥が空いていた)
(あれ、私、どうやって止まる?塀にぶつかるしかない?)
(あ!パーキングに入れてみよう!)
(良かった、止まったー)
あとから息子に聞くと、枠の中にきちんと前進で止めてあったそうだ。
その時は、意識がちゃんとしていたのだろう。

各所へ連絡

まずは、連絡しなきゃと!
ここでも、脳の病気だとは思っていない…情けない私…
1番目、朝、電話をかけてしまった母にLINE
『今から救急車に乗ります』
2番目、病院へ
「駐車場についたのですが、救急車を呼んでほしいです」
3番目、会社のチャットへ投稿
『今から救急車に乗ります』
『え、どういうことですか?』の返事
(あ、そりゃー分からないわな・・)と一人に電話
ここで、先生が車に来てくれた
先生「どうしたの?まず、診察をしないと・・・」
私「いえいいです、救急車を呼んでください」
ここで、記憶が途切れています。
人生初の救急車にどうやって乗ったのか?
中でも会話したようですが、全く記憶にありません。

次の記憶は手術後

手術の翌日の午後でした。
子どもたちが2人、ベッドの横に座っています。
とても心配そうな顔をして。
開頭によるクリッピング術による手術でした。
当日の午後4時から7時までの3時間だったそう。
先生からは
「3段階あるうちの一番軽いものだから、社会復帰できると思うからね」
ということで手術が始まったようです。
子どもたちとの会話は、あんまり覚えていませんが、
「そんなことはないと思うけど、誰かが頭の中を触っているよう。
 情報を入れているような感じで、頭の中が騒がしいのー」
と訴えていたのを覚えています。

誰も想像しなかった私の無知

手術後、いつの時点か分からないけれど、先生から
「くも膜下出血でしたよ。手術は成功したからね」
と言われた。
その時の私は、どんな心境だったか。
「そうか!良かった!終わったのね!
 クリアってことね!じゃ、あとは退院ね!」
と、なんとも軽いものだった。
なので、どうして子どもたちがあれほど心配そうな顔をしているのかが分からなかった。
そう、私は「くも膜下出血」がどれほど怖い病気なのかを、全く知らなかったのだ…(汗。
「病気」自体に興味がなく調べもしない、身近にくも膜下出血で亡くなった人もいない、医療ドラマも見ず55年生きてきてしまったのだ。

後遺症もなく3週間で退院

結果、ICUで2週間、一般病棟で1週間過ごし退院しました。
術後2日は頭が痛すぎて、ひたすら寝て、嘔吐もしていた記憶はありますが、3日目から鎮痛剤をうまく使って、頭痛を抑えればいいと知り、かなり楽になりました。
「ミネラルをちゃんととってね。うどんのおつゆも飲んでね~」
と女性の先生に言われ
(そうか!ちゃんと食べたらいいのね!)
と、3食完食をする日々を過ごしていました。
この時、子どもたちが私に言っていなかったことがあります。
2週間は脳梗塞になる可能性があり絶対安静。
予断を許さない状況なのだということを。

ICUでの様子は次回以降で、2週間は病気について人が驚くほど無知が故に救われた?のかもしれません。

つづく

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