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弓塲勇作インタビュー -【連載】家船参加作家 / CLIP.9-

作品「家船」は多数の作家と地元住民、様々な協力者によって共同制作されている。この作品への参加作家が個人では普段どのような活動や制作をしているのか、レビューとレポート3月号「家船特集」を皮切りに、各人へのインタビュー記事を連載形式で掲載する。

今回は弓塲勇作へインタビューを行った。


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弓塲勇作(ゆば ゆうさく)
画家。1983年愛知生れ
2016年 個展「ヤポネシアの赤い空」京都momurag
2018年 二人展「蝦と愚者」中央本線画廊


(聞き手=荒木佑介、KOURYOU)

ー弓塲さんの今までの活動や作品についてご紹介いただけますか?

弓塲:ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校というスクールの1期に通って、それ以降に展示とかポツポツやってます。新芸術校へ行ったのが32歳位で、それから今が37歳なんで5年位ですかね、画家として人に絵を観てもらうのは。その間に中央本線画廊や京都のmomuragなどで個展や、カオス*ラウンジの展示に参加させてもらったりしています(図1)(図2)。

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図1 弓塲勇作・野々上聡人二人展「蝦と愚者」(中央本線画廊)2018年
展示作品「Mutant ever since」 撮影=弓塲勇作


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図2 弓塲勇作・野々上聡人二人展「蝦と愚者」(中央本線画廊)2018年
展示作品「AQUAFRESH」 撮影=弓塲勇作


ー「Mutant ever since」や「AQUAFRESH」を見ると、同じ構図や連作の2枚で1つの作品になっていますが、どういった意図があるのでしょうか?

弓塲:常に絵を描くときは画面の中で線や図象で反復を意識してリズムをとって描いているんですが、それを2つの画面に分けてボンっボンっと大きなリズムで見たかったてのが最初で。画面を分けないと1枚の絵の中でいつもと同じようにリズムをとってしまうので分断された形で反復を成立させてみたかったんです。イメージとしてお笑いコンビのボケとツッコミみたいに対の形でのリズムの往き来を絵画に持ち込んで描いてみたかった。何度か試している手法ですが、二人展ということもあって顔や人体をモチーフに人物が対になってる形で描いています。

ー新芸術校へ通われる以前は絵を描いていなかったんですか?

弓塲:いや好きでずっと描いてましたよ。もともと一人遊びで小さい頃から絵を描くのが好きで得意なモノでした。小学生の終わりか中学の始め頃に美術の教科書だったり母親が持っていた近現代の美術の画集とかを見て興奮して、同時に父親のビートルズのCDとかから音楽にも興味を持ってそれと同じように楽しんでましたね。それが未だに続いてるって感じです(図3)(図4)(図5)。

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図3 無題(女の子と別れた時に描いた絵) 撮影=弓塲勇作

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図4 無題(落書き) 撮影=弓塲勇作

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図5 無題(伊丹十三についての絵だった記憶) 撮影=弓塲勇作


ー弓塲さんの絵を見ると、絵や音楽など良い作品に沢山触れてきた方なんだろうなと感じます。特に好きな作家はいますか?

弓塲:特にって言うとブラックの絵ですかね(図6)。好きと言うのか思春期の頃に出会った不動で偉大な存在、先に触れたビートルズとかと同じような感じと言うとわかってもらいやすいかも。それ以外でも色んなジャンルで好きな作家は多くいますが、最近改めて興味が出てきたのは、昔に読んでたエロ漫画の構図とかインパクトあってスゴかったよなって。どの作家のどの作品がとかは全く記憶にないので分からないんですけど、勉強してみたいなと思ってます。どう勉強していいのか手を出しにくい分野ですけど。エロ漫画とか言うと冗談に聞こえるかもですが、なるべく多くのモノから影響を受けたいと思ってますね。

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図6 無題(ジョルジュ・ブラックの「ポルトガル人」から引用した絵) 撮影=弓塲勇作


ー美術大学に入りたいとは思わなかったのでしょうか?

弓塲:中学もろくに通ってなかったので高校への進学も危ういような状況で、大学へ進学なんて毛頭考えてなかったです。絵を描けてさえいれば満足だったし。形にして例えば展示したいって欲求もなかった訳じゃないですが、それよりも作ってる行為を楽しんでいて、人に見せたいってほどのエネルギーが僕にはなかったのかな。


ー弓塲さんは美大進学しなくて正解だったんじゃないかなと思います。進学すると楽しんで描けなくなってしまう人も多いです。人に見せていなかった頃の作品について教えていただけますか?

弓塲:落書きの様にノートやスケッチブックに描いていて、その延長で大きなと言ってもスケッチブックに比べればという程度のものをキャンバスなんかに描いたりと、作品を作ってると言うのでなく試したいコトを遊んでいる感じです(図7)(図8)(図9)。そう言う意味では制作動機や手法は今と大きく変わる所はないんですが、見せるってコトを意識して「作品」として制作するという前提があるのは当時とは違うんだと思います。それについてはキャリアも短く悩む所も多いです。

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図7 無題(マンガ風の絵) 撮影=弓塲勇作

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図8 無題(マンガのコマワリを意識した絵) 撮影=弓塲勇作

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図9 無題(マンガのコマワリを意識した絵) 撮影=弓塲勇作


ー展示をして作品を人に見てもらおうと思ったきっかけはなんだったのでしょう?

弓塲:色々と思う所は多くあったんですが、はっきりとしたきっかけはヘンリー・ダーガーのドキュメンタリー映画でした。彼が入院し死が迫ったところで彼の部屋から大量の作品を発見し驚いた隣人が「なぜ黙っていたんだ」とつまりこんなに大量にモノを作っていて何故誰にも言わなかったんだと問い詰めたんです。それに対してヘンリー・ダーガーは「もう遅いよ」と答えた。真意は分かりませんが「もう遅い」という言葉は僕には衝撃でした。自分の心の内のセリフを聞かされたようで、「もう遅い」という言葉から逃れるための道を模索し始めたんです。20代の終わりの頃でした。


ーそうした思いから新芸術校へ入学したんですね

弓塲:そうですね。焦りがあった訳ではないんですが、とにかく「もう遅い」という言葉を吐かない為の理由付けが欲しかった。とりあえず人に絵を見てもらえさえすれば何でも構わなくて。それから数年経って新芸術校に通う機会を得て(図10)、今は当時とは違い、新芸術校での出会いや、そこから広がった人達にお世話になって、少ない機会ですが活動させてもらっているって所です。
今回の「家船」のプロジェクトへの参加もそうですね。始めはカオス*ラウンジの展示で一緒になり、仲良くなった荒木さんに声をかけてもらってそこから参加しました。

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図10 新芸術校で展示した絵 撮影=弓塲勇作


ー新芸術校に通われたり個展を開かれるようになって(図11)(図12)(図13)、何か考え方など変化はありましたか?

弓塲:大きな変化は、やはり環境が変わった所ですね。それまでは全くの1人で絵を描いていてそこから何かに繋がるなんてことはあり得なかった訳で、僕の場所は家の中だけだった。現在も基本的には変わらず家で1人シコシコ絵を描いているんですが、そうしているってことを知ってくれてる人がいるってのは大きな違いだと感じています。この5年間を振り返ると本当に素晴らしい場所にいられたなと思えますね。新芸術校を開いてくれたゲンロンや初個展でお世話になった村屋さん、展示をさせてもらった中央本線画廊、どこも素晴らしい場所でした。その中でも特に、京都にある村屋って居酒屋さんでは本当に多くの刺激と出会えました。笑って美味しく酒を飲んでただけなのかも知れないけれど、常に感謝を伝えたい気持ちでいます。それ以外にもカオス*ラウンジの皆さんや身近で刺激をくれる作家さん達にも感謝してます。
そうしたなかでの「家船」との出会いも刺激的でした。
個展などをしてみて、自分が望む「消費のされ方」についてまだ自分の態度が曖昧なんだと痛感しました。絵画を売るって事への覚悟の無さなのか、至らなさを感じました。絵を誰かに見てもらいたいって簡単な目標は達成されてしまったので、次はどのように進むのか悩ましい所です。

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図11 初個展「ヤポネシアの赤い空」(京都momurag)2016年
展示作品「ヤポネシアの赤い空」 撮影=弓塲勇作

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図12 初個展「ヤポネシアの赤い空」(京都momurag)2016年
撮影=弓塲勇作

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図13 初個展「ヤポネシアの赤い空」(京都momurag)2016年
展示作品「Calbee」 撮影=弓塲勇作


ー「家船」への参加経緯などお話ししてもらえますか?

弓塲:荒木さんに最初お話をもらった時点で、相当大変な設営になるので協力して欲しいって感じでした。作家としてではなく、現場の人足として男手がほしいみたいな。場所も瀬戸内の女木島で遠いし。その場所は以前にもカオス*ラウンジの手伝いで行ったので,
大変な設営になるなと想像できました。立地的に自由も利かないし、作品規模も相当大きくなりそうだと。
KOURYOUさんからは現場リーダーという形で参加してもらいたいって話しでしたね。正直、僕としては特にそういったスキルもないしどうしたモンかなと、とりあえず名前だけのモノとしてやってみるかな位に考えてましたね。
なので、実際の僕の動きとしては現場で必要な事があれば動くというくらいで、人に指示を出したり取りまとめるようなことはなく、本当に名ばかりのリーダーって感じでした。やはり「家船」の家長はKOURYOUさんで、皆がその家長の熱量についていったという形で出来上がった作品なんじゃないでしょうか。


ー現場ではタイトなスケジュールでの制作中に、島民の方と一番コミュニケーションをとってくれて、とても助けられました。

弓塲:KOURYOUさんからのお願いでもありましたし、事務局からの要望としても島民とは積極的にコミュニケーションしてくれと、島で会った人には挨拶しろみたいな。けれどもそんなの当たり前の事で言われなくてもヤルだろと。謎の要望に逆に不安に思いました。
女木島へ着いた初日に観光協会の横山さんという方へご挨拶に伺いました。荒木さんから以前カオス*ラウンジが瀬戸芸に参加した際に横山さんに大変お世話になったと聞いていて、なら僕達もお世話になっちゃおうと、実際に横山さんには何から何まで本当に終始お世話になりましたね。
横山さんのお話を伺うと、事務局からの要望も理解できました。実際挨拶しないヤツが多いそうです。横山さんは「芸術する若い人ってそういうの多いじゃない」と笑ってお話ししてくれましたが、僕としては結構根深い笑えない話だなと思いました。そのお話を聞いて、当たり前な部分以上に島民の方達とコミュニケーションをとも考えましたが、上手くいったのかどうかはわかりません。
余談というか文句みたいになってしまいますが、島民へ挨拶しろと言う事務局のスーツを着た人達が現場に来る時が何度かあったんですが、スーツを着たオッサン達は漁師のオッサン達に全然挨拶しないので、なんだこりゃ、ダメだこりゃって。
僕はココとは関係ないトコロで女木島への興味を持てたらなと、どうしようもない気持ちになったりしました。


ー瀬戸芸会期中に女木島で2年に1度開催される住吉神社大祭があり、女人禁制でKOURYOUが参加できないので弓塲さんが担ぎ手として参加されました(図14)(図15)(図16)。どのような感想を持たれましたか?

弓塲:感想を聞かれてパッと思い浮かぶ言葉は「楽しかった」なんですけど、思い返すと中々大変なお祭りでしたね。太鼓台というのを担がせてもらったんですけど、その太鼓台は丸太で組んでいて中央に子供が4人乗っていて、これが神様なんですけどね。で太鼓台を皆で担いで決められた道順を廻るんですけど、丸太で組んでるからスンゲー重い。で神社に着いたらその太鼓台をポイっと投げるように地面に下ろすんです、相当な重量があるものですからねドーンと地面に落ちる、そしてそれを左右から押し引きして転がすんです、これ常に神様が中央に乗ったままですよ、ガッコンガッコンひっくり返す勢いで転がすんです。何度かそれを繰り返して今度は太鼓台を海の中へ運ぶんですけど、僕泳げないんで必死でした。それでたっぷり水分含んで重くなった太鼓台を今度は坂道を登って運んで行く、そんでまたガッコンガッコン転がすんです。説明してて何を言ってるんだって自分でも思いますが、よくあるお神輿担いでワッショイワッショイって祭りとは全然ちがいましたね。何度か参加されてる人から事前に脅されるんですよ、「頭割って血出すヤツとかいるよ」って。聞くと昔はケンカみたいにガッコンガッコンの転がし合いだったらしく流血してなんぼの世界、てか誰かは血を流さないと終わんないみたいな。散々脅かしてもらいましたが、今はそれほどのことはなく血を流さずにすみましたけど。この祭りで流血する位じゃないと島の男として認めてもらえないのかも知れないですね。島の男はスンゴイですね。

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図14 女木島住吉神社大祭2019の暴れ太鼓の様子。神様である子供たちが乗る太鼓台を大きく左右へ揺らす。 撮影=KOURYOU

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図15 担ぎ手として参加した弓塲勇作(中央) 撮影=伊藤友里恵

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図16 住吉神社大祭の様子を描いたドローイング2点 撮影=弓塲勇作

ー「家船」制作はどういった経験でしたか?ご自身の作品へ影響はありましたでしょうか。

弓塲:現場でよく耳にした「エイジング」って言葉にすごく引っ掛かりがありました。木材などを古く見えるように加工するって話だったんですけど。そこから暴力的なモノを想像して最初は変に抵抗がありました。実際には古くないモノを嘘で塗り潰す作業やその行為に違和感を感じてしまっていました。繰り返しそのコトを考えていたんですが、実際に作業し作られたモノを見てしまうと、それはただ古く見えるのではなく、そこに意図がはっきりと読めるんだと気付きました。無垢な木材がそれでは無い「何か」に変容していく様は面白く思え、絵画制作と近いもの、もっと言えばそれそのままのものと感じ考えを改めましたね。つまり、その暴力を快く受け入れるようになった。
そうして改めて「家船」を観てみると、その暴力が見事に空間から歴史へと広がり大きなウソが「物語」に変わっていく経過は参加作家としての一番の興奮であり、とても大切な経験だったと思います。
自身への影響については、「家船」の物語への介入へ興味が移ったと感じますね。現場での設営という形でお手伝いさせて頂きましたが、それ以上に物語へ入り込みたいと。
それで漫画という形で表現し、物語に枝葉をつけられればと思い、「家船」プロジェクトから出たzineに漫画を掲載させてもらいました。(図17)
今後もどういった形で参加協力出来るか分かりませんが、ある時は現場の人足として、ある時は作家として、これからもこの「家船」という「物語」の登場人物になれたらなと思っています。

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図17 家船zine 掲載漫画「センチメンタルジャーニー」の一部 撮影=弓塲勇作

TOP画像タイトル『村屋 天井画』

「レビューとレポート」第14号 2020年7月