松澤宥にとっての「初期・松澤宥」-パープルームギャラリーでの2回の展示を見て 千葉成夫

1 戯れ歌ひとつ
蝶夢、あるいは超夢
待つが身に/つひのこの世の/ざわめきは/夢とも思ふ/高嶺ゆくわれ

2 このところ
このところ(1年余りの間にだが)、松澤宥の展示が幾つかあった(註1)。僕が注目したのはパープルームギャラリーの2度の展示だ。1回目が「オブジェを消す前に-松澤宥1950-60年代の知られざるドローイング」展(2019年2月2日~22日)。2回目が1年後の2020年の「松澤宥-イメージとオブジェにあふれた世界」展(2020年2月22日~3月2日。会場はパープルームギャラリーとパープルーム予備校)である。両方とも展示されたのは平面作品、ドローイングや小絵画的作品だった。2回目の展示には子供時代の作品も少なくなかったが、それはここで論ずる対象ではない。

僕がとくに注目したのは1964年の「オブジェを消せ」以前の作品群、「初期・松澤宥」の作品群である。この2年にわたる2つの(これも「2並び」)展示を見て僕が考えたのは、それらの作品に明らかに現れている松澤さんの表現者としての「広い意味での胸のモダモダ」、ないしは「根源的な意味での胸のモダモダ」をどう・捉えるべきかだ。それを考え直してみた。あくまでも「胸のモダモダ」についてであり、「頭のモダモダ」についてだと勘違いしないでね。もちろん青年期だから「頭のモダモダ」だっていっぱいあったでしょう。

作品群を見、あらためて全体を振り返ってみると、例えばときに言われてきたエロティシズム、そこからシュールレアリスムに繋がるようなエロティシズムの要素は、松澤さんには実はあまり無い。僕が歳を取ったからかな。それをいうなら、むしろ深層的ないし本質的な意味での、つまり「命のレヴェル」という意味でのエロティシズムだろう。松澤さんは戦争で遭遇した「死という消滅」を胸奥に(頭の奥に、ではない)抱えたまま戦後へ、つまり表現へと歩き出した。

3 僕の基本姿勢は
僕の基本姿勢は「三つ子の魂百まで」みたいにどうしても変り映えしないのだが(もっとも、変り映えし続ける批評なんて、怖ろしいねえ!)、おおよそ以下に要約できる。第一に日本列島の「近代~現代日本美術」を西洋美術の思想(出自、理念、歴史、方法、材料など)に当てはめて考えることはしない。第二に19世紀後半以降の大津波の如き西洋美術到来も無視しない。その系として、20世紀の早くから露わになった西洋近代美術の終焉への道行き、それに現代日本美術も無縁ではありえなかったし今もありえないこと、但しその終焉への道行きの在り方ないし現実は、否応なく日本列島固有の色合いを帯びてしまうこと、これを忘れない。美術批評はそういうことを繰り込まなければならない、相も変らずに僕はそう考えている。

4 そこで松澤宥だが
そこで松澤宥だが、当然、彼も日本列島に生れ育ち芸術家になり、かつ「美術の終焉期」を生きたのだ。

絵のほかに詩も書く青年だったが、理工系だったために特攻隊ではなく工場労働などに狩りだされただけで生き長らえたという共通点で、僕は、例えば彼より2歳年下の吉本隆明などを思い出してしまう。松澤さんは、雑誌『機關13』の「松澤宥特集」号での菊畑茂久馬との対談中、学徒特攻動員で命を落して逝った同世代の友人たちにたいする想いを語っている。僕の感触では、このことが彼の「消滅感」、その展開としての「(消滅思想というより)消滅観」の原点にある。無論、それがすべてだなどとは言わない。

美術表現は「原点」ないしは「核(コア)」というか、そういうものがないと始まらないが、それだけでも展開はできない。「原点」ないし「核(コア)」を失わずに、失わないだけではなく展開できて初めて美術表現になる。展開できないで手前で止まってしまうと、例えば「繰り返し」に陥って停滞する。そして停滞したものはもう「美術表現」ではない。外形や恰好はどうであれ、既に「美術表現」ではない。

この停滞はときに工芸・デザイン・サブカル等に近づく。あるいは、ついにはそういうものになってしまったりする。勿論、美術表現とは世界がもともと異なっている正統的な工芸・デザイン・サブカル等というものがあり、そちらからすれば近づかれても困るかもしれない。それはともかく、松澤さんは最後まで「原点」を中核に据えて展開を続けた。

5 未公開の「初期・松澤宥」作品は
未公開の「初期・松澤宥」作品は、サイズの小さなものも含めるとまだ数多くあるようだけれど(「プサイの部屋」ではなくて蔵の方に保存されていたらしい)、この(2つの)展覧会を見て考えたことを言ってみよう。

平面作品はドローイング的なものがどうやら大半だろうと思われる。「ドローイング」は、「絵画作品(本画)」のための広い意味での予備的な習作(群)であり、従ってそれじたいとしては完成を目指していないものだから、多かれ少なかれ未完成の雰囲気を持っていることが少なくない。未完成には未完成の魅力と価値があるけれど、弁えておくべきは「絵画作品(本画)」と「ドローイング」は必然的に在り方の位相を異にしている点だ。ここでいう「位相」の差とはレヴェルの違いという意味ではなく、いってみれば「作品の骨格」の違いである。前者はしっかりした「構造」を必要とするが、後者は現在進行中、模索中、構想中の自由さをもち、どのようにしても成り立つという性格をもっている。点だけ、線だけ、色彩だけ、それらの組み合わせだけ、「構造」以前の「構成」でとどめるだけ等というように、どうやっても自由なのだ。パープルームギャラリーに展示された作品はその意味で大方がドローイングだった。

6 初期・松澤宥のドローイング作品の理解は
「初期・松澤宥」のドローイング作品の理解は、様式的に何に似ているとかこれは何の形だとかいった、これまで一般的だった入り方からまず離れるべきである。曰くシュールレアリスム的、抽象的、アルプ的、キュビズム的、エロティック等々。そういうふうに規定してしまうと、始めから余計な色がついてしまう。むしろ、松澤さんが意図していたと思われる方向を念頭に思い描きつつ、実はそれが出てきている元々の方に、いわば逆に向って眼を凝らして僕たちの感覚と視線を研ぎ澄ますようにしたほうがいいのだと思う。「そこ」には何が感じられ、見えてくるか?

僕が「死という原点」にこだわるのもそのためで、そうすることで、松澤さんが表現形式や時期を越えて一貫して試みてきたことがより鮮明になる気がする。

7 とはいえ僕も、まず
とはいえ僕も、まず「初期・松澤宥」のドローイング作品群の、単色のドローイング(むしろデッサンというべきか)ではなく、色彩を持つドローイング作品群(むしろ小絵画作品というべきか)についての解釈を試みてみる。初期ドローイング作品群の絵画的ないし造形的なルーツは、ざっくり言えば二つだろう。

ひとつは「かたち」由来である(例えば図1)。こちらは、どういうわけなのか、「丸い形」が根にある感じのものがけっこう目立つ。丸い形がそのまま出てきたり、変化したり、別の要素を伴ったり、別の要素の脇役のようになったり、時には「文字」由来のものに近づいたり、それと融合したりしている(例えば図2)。「かたち由来」のものの基調が「丸い形」にあるとは、松澤さんがドローイングへ向って手を動かすことがおのずと、無意識のうちにも、生命とか生命現象を呼び寄せていることを物語っている、そんな気がする。こういうことは、女性画家たちがけっこう得意とするところだろう。松澤さんが女性ばかりの家庭で育ったことと関係があるかもしれない。

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図1

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図2

もうひとつは「文字」由来である(例えば図3)。漢字前期の象形文字、漢字、古代ギリシャ文字(←フェニキア文字)、サンスクリット文字(梵語)、アラビア文字(←アラム文字)、そのどれともつかないものが根にあると思わせる。それを根に持ちながら、ドローイングへの変容が試みられている。こういうのは、どちらかというと男性が得意とするのではないだろうか。

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図3

「そのどれともつかない文字のようなもの」へと松澤さんの(頭ではなくて)心と感性が動く。そうやって出てきているものを、いきなり「文字」と捉えてしまうのはよくない。知に働くと角が立つ。まずは情に棹さしてみる、流されないように。松澤さん自身がそうだっただろうから。
順序としては、無意識ないし無意識以前を背景として生れ出た「かたち由来」が先で、「文字由来」のほうは明らかに後である。そして、ここが松澤さんの特異なところだと思うのだけれど、その後、この「文字のようなもの」から「文字のような」という形容句が消える。「文字由来」と見えたものが、単純に文字由来とは言えないものになっていく。ここはけっこう重要なところだ。では、それを何と言うか?

「かたち」に発しながら、しかし具体的な事物や、具体的な事物のメタモルフォーズに行くのではなく、ひとっ飛びに言葉で言い表し得る抽象化ないし観念化された地平に行くのでもなく、その間を、その隙間を、すり抜けていこうとする。そういう感じがする。具体的な形に頼らないで言葉にしたい。松澤さんの欲求はそうなのだが、この世の言葉では不十分である。死者たちはもう語らない。しかし死者たちなら語るかもしれない、そんな「言葉の位相」が欲しい。

けれども両者ともに、「かたち」由来も「文字」由来も、まだ「絵画のためのドローイング」の段階、「絵画」以前の段階にあるといっていい。

8 それがもう少し進むと
それがもう少し進むとどうなるかという例も、少ないけれど、見出すことができる。例えばスケッチブックの一つに残された《記号の記号の記号》(図4)などがそれにあたるだろう。小さな作品だが、「絵画へという抽象化」をほぼ終え(「抽象絵画」になったということではないですよ)、一応の「構造」とまではいわないにしても、「構成」を越えたくらいの「構造」が(無意識裡にも)実現されている、といっていい。この作例については、題名も面白いのは偶然だろうか。あるいは、ふと思いついた洒落、かもしれない。

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図4

横書の詩文のようなもの、読めない文字のようなものが、列をなしている。いや、どう見てももう文字や詩文には見えず、横の筆触(タッチ)と筆致(ストローク)による「抽象表現のようなもの」になっている。とはいえそれは(未だ)絵画としての抽象表現ではない。「構造」は絵画に近くなっているけれど、譬えていうと「かたち由来」と「文字由来」とを突き交ぜてみた、といった具合なのだ。突き交ぜて、間をすり抜けているのか?
色彩は、いちばん上の層の「文字みたいなもの」の列は赤と茶色の中間くらいの色、その下は一見、濃い青のようにも見える。しかしよく見ると、そうではない。その濃い青のような層は、縦の青いストロークでほぼ覆われている層がまずあり、その下に黒い色の層が垣間見える(図版ではよく判らないかもしれないことを憂えるが)。青の層でほぼ覆われているようでいて、しかし下には確かに黒い色の層がある。それがいちばん下の層になる。だから、とりあえずはその層が「地」になっているように見える。
そうすると、ボンヤリではなくピントをちゃんと合わせて見るなら、僕たちはこの「絵画」の「地」と「図」を明瞭には掴めないことになる。というのも、「地」は「青」から下全部なのか、それとも「黒」の層だけなのかが、決められないからだ。細かすぎる?そんなことを言う人は「絵画」や「美術」の世界から退場して下さい。漫然と、漠然と見るのも時には悪くはないが。

僕自身は、この「決められなくて困ったなあ」と思った時、技法的にはというか物理的にはというか構造的にはというか、ここが決め手だと判った。これがあるので、この作品は小さくてもほぼ一点の「絵画」に近いものたりえているのである。

9 でも、この黒の層が
でも、この黒の層が「地」である、とも言い切れない。「図」の部分全体はさらに鉛筆とおぼしき黒い線で正方形に縁取りされているからだ。それが支持体の長方形の紙から正方形の全体を自立させていて、長方形の紙は用紙、支持体にすぎなくなっている。なので、黒い縁取りの線の内側が「地」になっている、とも言い得る。そこが面白くて、厄介でもあるところだ。

ここで、この作品のタイトル《記号の記号の記号》が意味を持ってくる。「記号の記号の記号」というタイトルは、元の「記号」に戻っているのではなく、「どう言っても結局は記号でしょう」ということでもなく、その先の方へまで展開していく。「先の方」、すなわちもう如何なる「文字」でも「記号」でもないけれど、新しい表現として「文字でも記号でもない何か」である、というような方向である。ややこしいので、ひとまず端的に「絵画」と呼ぶのが便利だし、それで正解だろう。

だいたい「記号」という用語を持ち出すと、事を一般化しすぎてしまう。意味内容が明瞭になったようでいて実は薄くなるか曖昧になるかのどちらかで、決して良い用語ではない。ということを問わず語りに言わんがためにここで松澤さんは三重にしているような気さえする。というか、彼のお茶目振りのあらわれでしょう。僕の流儀では端的に「絵画」と呼べばいい。

それを弁えたうえでいうと、松澤さんの三重ねの「記号の記号の記号」の意味は、「記号」の意味が脱色された地平、というところあたりにあるだろう。彼はそんなふうにして「ある地平」を望見していたのである。絵画はもう終っているし、「美術」そのものがもう終っている。1950年代後半から1960年代前半にかけて、松澤さんは既にこの状況を感じ取っていた。かなりはっきりと自覚していたに違いない。僕はそう考える。

絵画、そして美術の終焉の状況は、偶然(だろうか?)、まず西欧で、次いでアメリカでも進行していった。間もなく欧米の「概念芸術」が日本に輸入されてきたが、そうなっても、謙虚な松澤さんは馬鹿なこと(自分の方が少し早いとかほぼ同時期だとか)はいっさい口にしなかった。僕のみるところ、それは謙虚さゆえばかりではない。欧米の「概念芸術」と自分の試みとは、本当のところでは文脈も中身そのものも異にしていたからである。いちばん解っている御本人は、解っているがゆえにというべきか、敢えてそのことを口にしなかった。流石ですねえ、格が違う!

10 それでもこう言うと
それでもこう言うと、それってつまりは絵画への「回帰」ということを言いたいんでしょうと、早とちりの勘違いないし過剰反応をする人々が出てくるかもしれない。いつまでも「20世紀型美術史」に凝り固まっている人々とか、闇雲に「20世紀型美術史」の先へと走りたい人々とか、かな。でも、僕たちはまだまだそんなに簡単に「近代絵画」から、つまりは「近代美術」から逃れられるわけがない。停滞も困るが、先走っても駄目なのだ。

他方、新しいものでなければ駄目だという進歩主義者(若気の至りなのか骨の髄までそうなのか)はいつの時代にもいるから、そういう人々も困る。数百年後に松澤さんの作品に接することになる人々のことは解らないが、「初期・松澤宥」作品は1950年代から60年代前半にかけてのもの、今からちょっとだけ前の時代のものなのに(といっても、もう半世紀以上は経ってしまったか!)、その時代(前後を含めて)のことを無視するのはいただけないし、現実的でもないし、まして知らないなら論外です。

松澤さんは、「絵画」という真っ当な道を見据え、そこからそのずっと先の方を探っていた。つまり彼のドローイング作品や絵画的作品は、結局はその先へと踏み出さざるを得ないことを念頭において、試みられていた。要点はもちろん「どう踏み出すか」の方にあった。事を造形的にだけ見るならそうなのだが、松澤さんは「絵画」をではなくて「その先」をこそ目指していた点を忘れてはいけない。

11 だからこれはオブジェ作品についても
だからこれは「オブジェ作品」についても言い得るのかもしれない。ただしドローイング作品とはまた別様に言い得るかもしれない。オブジェ(物)はそれだけで(「レディ・メイド」以降)既に「作品」のようにも見えてしまう。というか、オブジェ作品じたいが作者の意図を大幅に越えたり、結果として作者の意図を無視してしまう、そういうことがありうる。「物質」はそれを見、手に取る人によって、あまりにも千差万別でありすぎる。そこが曲者である。それと、松澤さんが生きてきた時代からいうと、「オブジェ作品」はダダ、シュールレアリスム、次いでネオ・ダダ、アルテ・ポーヴェラ、概念芸術などと(あまりにも直接的に)関連づけられてしまう危険があった。

だから、松澤さんは「オブジェ作品」の先の方へと(先の方へも)踏み出していった。「美術はとにかく物質を媒介にしている。その量を極度に少なくするためにも、言葉が一番いいということになった」というのが彼の説明だった。言葉のほうがよりニュートラルでありうる。

しかしここでも、本当は「言葉による作品」ではない方向へ向ったというべきである。言葉を利用しながら、言葉からすり抜けていくことが肝要だった。それゆえ、松澤さんの試みはミニマリズムや概念芸術ではない。欧米の思想からするとそうとしか見えないかもしれないし、考えられないかもしれない。だが違うと思う。

ミニマリズムや概念芸術は、どう言ったらいいか、どうしても論理的に、あまりにも論理的に歩み、進み、やがて直線的に突っ走ってしまうし、またそうなる、そうなるほかはない。比喩的に言うと論理はひたすら縦方向にまっすぐ行ってしまうことしかできないからだ。松澤さんが採ったのは下向に(上方に、といっても同じだ)踏み出し、走らず、というよりむしろそこにとどまり続ける、そういう方法だった。「方法」としていうならそうだが、僕の感触では、それは実はきわめて感覚的な踏み出し方、歩き方だった。
つまり欧米の方法では「すり抜ける」ということが本質的に不可能なのである。事は踏み出し方で決まる。

付け加えておくが、「オブジェを消せ」以降も松澤さんは幾つかオブジェ作品を残しているけれど、それは当り前だ。それをやっていけないなんてことは、これっぽっちもないのである。

12 松澤さんの「踏み出し」は
松澤さんの「踏み出し」は、しかし「造形」の面だけ見ていたのでは解らない。大切なのは彼の個人的状況と彼がそのなかに置かれていた状況だった。そしてどちらの状況も、松澤さんにとっての核心は個人と社会の「死」ないし「消滅」ということだった。それが根本にあっての試行錯誤が「絵画の乗り越え」と「オブジェを消せ」をもたらした。

そしてそこには、彼の絶対的無常観に裏打ちされた「消滅観」があった。そうなのだ、松澤さんが言う「消滅」は「思想」というよりは「観」、もっというと「感」だろう。拭い難い「消滅の感覚」だった。かつて友人たちは散っていった。日本という国もこの戦争の先で崩壊するだろうが、崩壊後に新しい国ができても、それがまともなものだという保証などどこにもなかった。国破れて山河だけあっても人の心が壊れてしまったら、それは「消滅」と変らない。松澤さんはいわば「死後」を生きたのだ。しかし今の日本社会はどうなのか。もう、ほとんど完全に壊れているのではないだろうか。消滅しているのではないだろうか(僕は他人に向てこう言っているのではないけどね)。松澤さん流にいえばすでに消滅しているのではないか。僕たちも、既に「死後」を生きるほかないのではないか。

松澤さんはほんとうは『国家』のことなどどうでもよかったにちがいない。中国唐代中期の白居易や日本の平安~鎌倉の藤原定家などとはまったく異なった意味で、しかし「紅旗破賊(或いは紅旗征戎)ハ吾ガ事ニ非ズ」(世の中の事は自分の関知することではない)なのである。松澤さんは、自分を含めての「人」のことだけ、とりあえず100年くらいでこの世から消える「人」の「消滅」をまず考えていた。そういう人々に向って「消滅しにいこう!」と言っていた。

どのみち、地球全体がいずれ太陽に近くなりすぎて消滅することは確かである。一人の人間の生存時間からすると永遠に近いほど遠いことだとしても、それは100パーセント間違いない。ただ、最近の地球の様子(温暖化を始めとする環境の大きな変動、世界総人口の膨大化、食料不足の増大、ひょっとして「核」の危険など)だと、「人」という生き物の「消滅」はもっとずっと早く訪れるかもしれない)。でも、それはそれとして、彼にとっては自分を含めての近々の「消滅」こそが問題だった。

松澤さんは何としても「そのこと」を表現の対象にしたかった。それも、「これまでのように表現する」のではなく、しかしあくまでも「美術」の上に立って、しかも「美術の先」の地平のところで表現したかった。それ以外に、表現に値することが他にあるだろうか?

松澤さんが採ったのは踏み出しをまずずらし、走らず、そして下方に(上方に)向い続ける、そういう方法だった。『方法』としていうならそうだが、それはとにかく感覚的になされたのである。

13 ここで僕は、何故かふと
ここで僕は、何故かふと、西欧の大人(タイジン)マルセル・デュシャン(1887~1968年)の一つの語、形容詞を想いおこす。「アンフラ・マンス(infra-mince)」だ。彼の死後に、覚書のなかから見つかった語である。僕もかつてデュシャンにはかなり馴染んだので、こんなところでふと出てきたのかしら。フランス語で「ごく薄い、超薄い」という意味だが、拙訳を披露するなら「薄さを、ずっと下の方向に向って超えて、薄い」となるかな。もう一つ参考までに、デュシャンはこの語を決して「名詞」として使うなと自身に向て言っている。それは実体として在る「もの」ではなく、実体の隙間に、ある種の雰囲気として生ずる「こと」だからである。

「無修正レディ・メイド」(1913年の《自転車の車輪》~1917年の《泉》)を提示することで近代美術を根源的に否定した彼は、だからといって美術を放棄したわけではなく、じつは「無修正レディ・メイド」の提示と同時に、「その先」に何ができるかをずっと模索し続け、それは生涯にわたった。美術を放棄したと誤解されることなど気にもせずだ。このあたりの韜晦ぶり、いわば「アンフラ・マンス」な韜晦ぶりは並みの西欧人を越えている。そして死んでみると、20年かけてほぼ秘密裡に作り続けた、通称《遺作》(1946~66年、註2)が突如として現れた。今風にいうとインスタレーション作品だが、肝心なのは、デュシャンはそれを「作品以後の作品」、「美術以後の美術」として構想し、じっさいに作ったということなのだ。

《遺作》の前にも通称《大ガラス》(1915~23年、註3)を試みたが、そちらは途中で止めて「未完成」に終った。しかし《遺作》は完成させた。

デュシャンには「次元」について、例えば「三次元とは四次元の投影である」という発想、考え方があった。一つ上の次元から世界を見る(ないしは一つ下の次元から世界を見る)、そういう作品を創りたい。ちょっと細かいけれど、「一つ上ないし下」というより、僕の感触では「二分の一上ないし下」とみなしたほうが「アンフラ・マンス」にふさわしい。《遺作》はそのような地平、隘路の地平で作られ、隘路の地平に存在している。近代美術から《大ガラス》を経て《遺作》への移行、変容を可能にしたのは何かと考えてみるとき、僕には、一つの隘路をすり抜けて進み続けたデュシャンの姿が思い浮かぶ。非常に狭い(アンフラ・マンスな)隘路を、である。

14 松澤さんが絵画とオブジェの先の方へ
松澤さんが絵画とオブジェの先の方へ、しかし「美術ではない世界」へ向ってではなく、あくまでも「美術」へ向ったとき、彼もやはり非常に狭い隘路を感じ、意識し、そういう地平をすり抜け続けようとしたのではないだろうか。そんな「アンフラ・マンス」なすり抜けのなかで彼が手にしていたのは自身の身体、発する言葉、そして書く言葉だった。それだけだった、というべきかもしれない。その先に松澤さんが見て、感じていたのは、物理的な意味での「次元」でも、論理的な意味での「次元」でもない、「美術」とは次元が異なるのだが、にもかかわらずなお「美術」であるもの、だったにちがいない。

松澤さんにとって「言葉」や「文字」や(パフォーマンスのときの彼自身の)「身体」は、「初期・松澤宥」の作品《記号の記号の記号》に見られた黒い線による縁取り、それと同じ働きを担ったのではないだろうか。作品そのものを括弧でくくる働き、自分自身を「美術」から突き放すことで「作品」を一歩先へと送り出す働き、である。《記号の記号の記号》の、黒い縁取りの線とその内側の絵、両者の間の余白、白い部分、そこをすり抜けていくのである。

これはいわば無手勝流なのだけれど、それがおのずと松澤さんの方法となり、いや「無方法の方法」となり、誰にも真似のできないものとなっている。

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(1):パープルルームギャラリー以外では、東京のギャラリーセラーの「松澤宥展《Śarīra還り骨》2019 没後12年いま蘇るΨの自然と超自然/宥池会コレクションから」展(2019年10月)や横須賀のカスヤの森美術館の「松澤宥《80年問題》」展(2020年1~3月。これは未見に終った)。
(2):《1・水の落下、2・照明用ガス、が与えられたとすれば》
(3):《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》


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図版
1:タイトル不詳、1950~60年代か、インク・紙、35.5x24.4cm
2:タイトル不詳、1950~60年代か、インク・水彩・紙、35.5x24.5cm
3:タイトル不詳、1958年、インク・墨・紙、26.7x18.1cm
4:《記号の記号の記号》、1960年、スケッチブック


編集注
戯れ歌解題

つが身に
ひのこの世の
ざわめきは
めとも思ふ
たか嶺ゆくわれ

松澤宥が潜んでいます。おわかりでしょうか?

レビューとレポート 第11号(2020年4月)