三田村光土里《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》レビュー 高橋綾子
序
日記を最後から読み進めていくような心地。そこにもう主は居なくとも、作品という物質や空間が消えたとしても、そこに流れた時間は、脳裏で編集自在だ。
出会って、別れて、また会える日まで。
もう会えないのが現実だと決めつけたなら、絶望と達観に屈するしかない。しかし、創造と想像の世界ならばこそ、時間を遡ることも、ねじれた時間にたゆたうこともできよう。
あなたの日記を最初の頁から読んでみよう。「だいじょうぶ……うまくいきますよ」と心に留め置くように、想ってみる。あなたが知らない未来が、いまここにある。
あるいは、どうにも予測などできない災禍や病や閉塞が待ち受けていたとしても、それ以前(過去)は、その時のために準備されていたのではない。ただただ、時間はひとしく過ぎていく。
2020年秋から冬、三田村光土里さんはいまだおさまらぬコロナ禍のなかで、名古屋の港まちを舞台としたアートフェスティバル(アッセンブリッジ・ナゴヤ2020)【1】に参加していた。会場のひとつ、旧・名古屋税関港寮での二ヶ月間にわたっての滞在制作だった。私が会場に伺えたのは最終日三日前で、すっかり場に馴染んだ空気と制作を終えた余韻と安堵をまとった三田村さんに再会した。
その前に会ったのは2019年10月初旬、ウィーンでしたよね。私はヴェネツィアから移動して、はじめてのウィーンだった。「JAPAN UNLIMITED」展【2】を観る機会を得て、ちょうどこの展覧会参加作家として滞在制作中の三田村さんに会うことができた。ミュージアム・クォーターの中庭でビオワインを飲みながら、もっぱら「あいちトリエンナーレ2019」で起きていることを伝えて、近況を語り合った。そして展覧会では現地の中学生が授業で熱心に鑑賞している、その生き生きとした姿が羨ましくて、「さすが、ウィーンだ!」と、おおいに感銘をうけたものだ。まさかその後、「あいち」から飛び火したかのように、10月末に在オーストリア日本大使館がこの展覧会への公認を取り消すことになろうとは、予想だにしなかったが。
それから翌2020年はじめ、お元気だったお母様に末期ガンが見つかった三田村さんは、2月からずっと愛知のご実家に帰省されていたそうだ。残念なことに三ヶ月後の4月、ご兄姉と一緒にお母様をご自宅で看取られたという。ウィーンでの乾杯からは、予期できなかった月日が経過していた。父母を亡くす経験は、私自身にも重ねることは多く、三田村さんの哀感がせつなく伝わってくる。いつ、どのように訪れるかは不測でも、死をどう受け入れて、その生の断片である記憶を、どのように分かち合えるかが大事で、それが今を生きることだと思えてくるのだ。
さて、名古屋の港まちで、三田村さんはどんな制作をしたのだろう。日常の記憶や追憶のモチーフを紡いでいく手法は、どう展開されたか。日記をあちこちから読み直すように、三田村さんの『こうかい日誌』【3】も参照してみよう。私の想いも重ねると、とりとめなくなりそうではあるが、ここに綴ってみようと思う。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020
旧・名古屋税関港寮
撮影:三田村光土里
1964年8月28日(金)
この日、三田村さんは生まれた。名古屋は晴れ、暑い夏の日だった。東京オリンピック開幕まで一ヶ月半に迫り、10月には東海道新幹線が開業、まさに高度経済成長期のまっただなかだ。実はこの年の6月に新潟で大きな地震があったことは、私はずいぶん後年に知ったのだが。
創作の発端は「探さない。見つける。」という三田村さん。名古屋港のガーデンふ頭を散策したとき、目にとまったのは「タロ・ジロの像」、そして「南極観測船ふじ」だった。「ふじ」は戦後初の南極観測船「宗谷」に続く2代目で、海上自衛隊で初めてヘリコプター格納庫や発着甲板を備えた砕氷艦というだけあって、なかなか壮観だ。1964年8月28日に日本鋼管鶴見造船所にて起工し、1965年3月18日に進水、7月15日に竣工した。「ふじ」の起工日と三田村さんの誕生日が同じという縁は、制作の重要な動機とモチーフになった。半年前に母を亡くし、自分の誕生日への感慨は特別なものであったに違いない。
ちなみに「ふじ」は第7次南極地域観測隊から第24次までの18年間活躍して、船の老朽化と輸送量の拡大を理由に、次の「しらせ」就航が決まって引退となった。その後、文部省と防衛庁から「南極観測船ふじの後利用」の照会があり、名乗りをあげた自治体の中から名古屋市が選ばれたという。こうして1985年から博物館として名古屋港ガーデンふ頭に永久係留されているというわけだ。ちょうど三田村さんが短大を卒業した年に、「ふじ」の第二の人生が名古屋ではじまった。
博物館になった「ふじ」は、今ではどこかB級穴場スポットの雰囲気もあって、かなりキッチュで面白い。船内を活躍当時の姿で保存、乗組員の蝋人形を配した情景展示になっており、食堂や調理室、医務室や理髪室の再現にはリアルさに加え、70~80年代の独特のレトロ感が漂って印象的だ。
三田村さんは、船内の展示を扉越しに覗き見ることにも興味をもったのではないだろうか。『こうかい日誌(10月14日)』には、ぬいぐるみや造花、懐かしいマスコットなどに目をとめて、「長い航海を過ごす部屋では、家庭にいるような景色に癒されたいのだろう。コロナ禍の生活にも重ねて眺める」と記された。
南極観測船「ふじ」 船内の蝋人形
撮影:三田村光土里
南極観測船「ふじ」船内
撮影:三田村光土里
音による鎮魂
三田村さんは、船内の視覚的な特徴に先んじて、「ふじ」の音に関心を寄せていた。停泊している船体は、かすかに揺れる時に、鈍く金属が擦れる音が響いていた。「大きな動物が切ない鳴き声を発しているかのよう」に感じて、すぐに録画で音をとり込んだのだ。それが《Till We Meet Againのためのサウンドインスタレーション》として、自身の切ない歌声とともに作品の一部となった。シーライトのオレンジ色の光が充満する空間に、年季のはいった可憐なハンドバックの中から聴こえるのは、三田村さんがアカペラで歌う「Till We Meet Again」。バスルームには「ふじ」の鳴き声と、船内で印象的に目にとまったであろう、ぬいぐるみと家族写真を撮影した画像が効果的に配された。会えない家族を想う感傷や、時間の止まった船体のオレンジ色と、航路を照らすライトの色によって、さまざまな時間と場面を交差させていた。
ところで三田村さんの初期の作品には、家族の古い写真を用いた特徴的な作品がいくつかある。たとえば《Inventions》【4】では、職場や家族での旅行でみせる、屈託のない明るい人々の表情が呈される。この作品は、連続した光景を組写真にして、そこに醸されるリズム感と、バッハのピアノ教則集である“インヴェンション”のフーガのリズムをシンクロさせる試みだった。撮る側の被写体への親愛の情感や、シャッターを切る無意識のリズムに、三田村さんは注目している。
展覧会の主題や滞在した場所など、創作の発端とモチーフは、自らの経験や記憶に照らし、何らかの因縁を経て展開される。核となる要素を大切にしながら、過ごす時間と出会う事物に柔軟に寄り添って、物語を紡ぐようにインスタレーションを展開していく。そこでは、しばしば音やリズムが重要な要素となるのだった。
音の要素とは、観客にひとしく現場性を与える。しかし、その現実感を宙吊りにする効果もまた、音にはある。特に、今回のサウンドインスタレーションは「不在」への鎮魂歌として受け止められた。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 サウンドインスタレーション
撮影:三田村光土里
南極と宇宙
タロとジロは、第一次南極地域観測隊のソリ犬として活躍した樺太犬の兄弟。第二次隊の越冬中止で昭和基地に残されたが、一年間を生き抜いて救出されたことで有名になった。映画にもなったこのエピソードは、多くの日本人にとっては美談として語り継がれた。この像も、「ふじ」が名古屋港に係留保存された機会にタロとジロの「夢と希望と勇気を与えてくれた」功績を謳って建立されたのだ。しかし、三田村さんを最初にひきつけたのは、銅像そのものの存在ではなく、この動物が「クマかオオカミか、と言い争う幼稚園児の声」だったという。実は私も、この像に猛々しさを感じたので、あながち子供たちの疑問は的外れでもなく、敏感だとも思った。
南極観測船「ふじ」 撮影:三田村光土里
「タロ・ジロの像」 撮影:三田村光土里
そういえば、星新一は、南極大陸の生態系を狂わせたタロとジロを皮肉って、ペンギンの視点からのショートショート『探検隊』【5】を1961年に書いている。タロとジロの生存が確認されたのが1959年1月で、帰国は1961年5月。まさにメディアが歓迎ムードを煽っていたなかで、星さんは、その美談に水をさした。舞台を地球にやってきた巨大な宇宙船と宇宙人、そして巨大な怪獣に置き換えて、「ペンギンの身にもなってみろ」と、その不条理を描いたのだ。ちなみにガガーリン少佐を乗せたソ連の宇宙船が発射され、人類がはじめて大気圏へ出たのが1961年4月で、このショートショートは時事的な作品でもあったのだ。
三田村さんが星新一作品を意識したかどうかは定かではないが、きっと、こうした視点への共感はあったのではないだろうか。60年代生まれの幼少期においては、米ソの宇宙開発競争、特に1969年7月のアポロ11号が人類史上初めて月面着陸に成功したニュース映像は、「探検」への憧れとして刷り込まれている。私も70年の大阪万博で「月の石」を見たという経験は、正直ほとんど記憶があいまいであるものの、何か皆が浮き立つように「宇宙」と「未来」を眼差していた感覚は残っている。しかし今となってみれば、その「進歩」への盲信も省みなければなるまい。
アイロニーをもって世界を描く文学と同様に、三田村さんのインスタレーションでも、やがて南極と宇宙が遭遇することになるのだ。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:冨田了平
パノラマ庭園
展覧会のタイトルは「パノラマ庭園 -亜生態系へ-」【6】。名古屋港エリアを、変容しつづける庭に見立てることが、このプロジェクトのコンセプトとして構想された。そのなかでの三田村さんの滞在公開制作には、「つくる/うまれる場所」としての港まちの原点を担うことが期待されたのだろう。会場となった旧・名古屋税関港寮は、もはや生活臭は抜けているとはいえ、その古い和室の連なりは、決してシャープに美術作品を引き立ててくれるような場所ではない。三田村さんは、最初に畳をはずした。『こうかい日誌(10月12日)』には、「絶望的な気分で空間に向き合い、アイデアを切望する」とある。空間を与えられて、そのサイズに合わせて素材を用意して組み立てるという意味でのインスタレーションではなく、三田村さんはほとんど丸腰で場に臨み、そこで「生きること」あるいは「生き直す」ことを選択しているように思える。
私は父母が居なくなった実家のリノベーションの際に、すっかり屋根と柱だけになるまで解体された「家」の原形を前にして、特別な感慨をもったことがある。場とは「私」を再生するものであり、きっと「私」という「原形」もあらためて構築できるのではないかと思えた。三田村さんのインスタレーションは、いわば記憶のリノベーションであり、そこでの滞在制作とは、場も人も生き直しているように感じられるものだ。
剥き出しになった部屋に、矩形の木材で空間に角度をつけながら仕切りを配す。ホワイトキューブであっても、既存の壁に依存しないのが三田村流だ。ウィーンの展示でも木枠が用いられていて、糸や紙やビニールシートが軽やかに吊るされたり、置かれたりしていた。『こうかい日誌(11月13日)』にある言葉がうなずける。「インスタレーションをよく見せるためには、壁は添え物だと思った方がよい」。滞在制作とは、その場で「生きる」ことそのものがテーマではないか。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 インスタレーション
撮影:冨田了平
10月11日に始められた『こうかい日誌』によると、10日23日の内覧会までに2階会場のサウンドインスタレーションを完成させ、同じく2階の「タロとジロ」の空間は、天井から回転用のモーターをとりつけて、キャビネットの引き出しを吊り下げて、いったんインスタレーションが完成している。内覧会の夜は、「フィンランド人のように」酩酊されたとか。『こうかい日誌』は、「航海」の「公開」だと思っていたが、「後悔」も予言的に加味されていたのやも。
さぁ、展示室がスタジオに化していく。「パノラマ」の主題は、「タロとジロ」と「ふじ」のいるガーデンふ頭の方向を「見渡す」という行為につながった。いや、ここでは「覗き見る」と言ったほうがいいか。だから、これまでもしばしば用いられている紙管の登場もうなずける。この筒は、望遠鏡にもトンネルにもなるのだ。海外での滞在制作の経験を重ねた三田村さんにとって、手に入れやすいという意味でも、紙管はインスタレーションの最強のアイテムになっている。今回は宇宙へのタイムトンネルにもなっていて、宇宙飛行士と南極のペンギンとの遭遇場面を演出していた。
モチーフの主役は、どうやら「タロとジロ」のシルエットのようだが、三田村さんがトループ(部隊)と呼ぶフィギュアたちも健在。新たにペンギンが仲間入りした。『こうかい日誌(11月27日)』によると、地球儀を用いてSFさながらの場面が出現する。「宇宙船が不時着した場所は、他の星ではなく未来の南極。次元が歪んだ空間で宇宙飛行士とペンギンが遭遇する」。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:冨田了平
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:冨田了平
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:今井正由己
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
ふたたびスタジオから展示室へ
来場者やボランティアとの交流をしながら、同時並行で他のプロジェクト【7】も興しつつ、いくつかの偶然も呼び込みながら創作が進行していったようだ。11月下旬にはラストスパートにはいる。制作を公開するという意味でのスタジオ(作業場)だった空間から、観客に作品を見せる展示室という空間へと舵を切っていった。
そして12月5日、インスタレーションは完成した。『こうかい日誌(12月5日)』には、そのクライマックスが記されている。「最後まで使い方に迷っていた縁側の端の壁を、南極の風景の幕で隠していたが、それを外したとき、部屋の角に吸い込まれるように、おかあさんの娘時代の写真がそこに落ち着いて不意に完成した。完成は突然やってくるものだ」。
偶然が必然となったとき、制作が終わりを迎えたのだろう。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 公開制作室インスタレーション《こうかい日誌》 旧・名古屋税関港寮
撮影:三田村光土里
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里 《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 公開制作室インスタレーション
撮影:三田村光土里
前日の『こうかい日誌(12月4日)』には、こんな心情も。「着地点を決めない滞在制作だったが、作り上げたい気持ちには抗えない。自分が何を生み出すのか、自分が目撃したい」。美術家は音楽家と違って、最初の観客になれるのだ。
『こうかい日誌』は、展覧会の最終日12月13日まで、43回のエッセーとして綴られ、タイプ打ちされた用紙が、ふわりと部屋の壁に貼られていった。その道筋は、「また会うために、わたしはつくろう」という副題に集約されていく。
ちなみに別会場で展示された旧作《Till We Meet Again》【8】では、欧州の友人との再会がテーマになっていたが、このモチーフの原曲は、第一次世界大戦中の1918年に発表された、兵士と恋人の別れを歌ったものだ。「また会えるのだろうか」という自問とは、人生の残りの時間や、あるいは何が人と人とを別け隔てるかについて、思いを馳せることになる。そしていま、この作品が発するメッセージには、三田村さんが「ふじ」の船内で想起したように、コロナ禍の私たちの生活を照らす意味合いも加わった。さらに、新作のインスタレーションは、港まちならではのサイトスペシフィックな作品であるとともに、母への鎮魂歌にもなった。
アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 港まちポットラックビルディング 三田村光土里《Till We Meet Again》 映像展示風景
撮影:冨田了平
青い誘惑―還るべき場所へ
三田村さんと分かち合った記憶も、ここに記しておきたい。
2000年に愛知県春日井市の文化施設から、私は現代美術展のキュレーションを依頼された。ちょうど30歳代も終盤に近づいて、学芸員から大学人へと環境を変えようとした時期で、開催は年度末の2001年3月だった。自らの門出だと意識しつつ、自由な立場で内容や作家を選ぶことができるなら、あまり大上段に立った主題ではなく、身の丈の問題意識を投影した内容をと思案した。新作を委嘱できる企画展の経験はほぼはじめてだったが、女性作家の三人展を構想した。それが、三田村さんとの出会いだった。
その頃の三田村さんは、社会人になってから10年余、東京を拠点に作家活動を1993年から展開しており、すでに海外での発表経験も得ていた。私より二歳年下で名古屋東部の長久手に実家があり、ご両親やご兄姉のこともお聞きし、なにより共通の親しい友人がいることもわかって、縁を感じた。
「日だまりのホームシック」と名付けた企画展【9】に、三田村さんは《冬の風の強い日の丘の上、午後2時》と題された新作インスタレーションを発表。四方の外壁を本棚で覆った部屋を造り、家族の蔵書や装飾品を据えるという作品だった。内部のリビングルームには、おそろいの黄色いセーターに白いフレームのサングラスをかけた、ちょっと奇妙なご両親の写真が飾られている。その部屋からは長閑なクラシックギターの調べが聴こえたが、中には入れない。三田村さんは、それを「手の届かない不確かな現実」と表した。私は、そのナラティブな仕立てが、観るものに直感的に共有できる「懐かしさ」をたたえていることに感心した。
三田村光土里《冬の風の強い日の丘の上、午後2時》 『日だまりのホームシック』展 2001年 文化フォーラム春日井
撮影:三田村光土里
三田村光土里《冬の風の強い日の丘の上、午後2時》
copyright:三田村光土里
この出会いからのち、内外の展覧会に招聘されて精力的に発表に取り組んでいった三田村さんを、私は少し離れたところから頼もしく眺めていた。2005年には文化庁の新進芸術家海外派遣制度でフィンランドに滞在、その帰国後に再会したのは2007年、長久手に住む共通の友人が開設したスペースにおいてだった。
大島千佳さんは、20世紀初頭のウィーン文化に魅了され、理想とする芸術普及や教育を目指して活動、その拠点とすべく、2006年に芸術館「菩提樹」を設立した。2007年11月、千佳さんは地元のアートフェスティバル【10】に参加するにあたって、幼なじみの三田村さんに参加を依頼した。《インヴェンションーよく晴れたふつうの日々―》は、千佳さん自慢のイバッハ社のピアノ演奏で上映された。内覧会のような雰囲気で、三人で集うことができたとき、私は父の死と母の病について、切々と近況を話したように記憶している。三田村さんの作品と千佳さんのピアノの響きに、さまざまに錯綜した感情がそのリズムで鎮められ、まさに浄化されるような不思議なひとときだった。それが、三人で会った最後になった。
三田村光土里《インヴェンションーよく晴れたふつうの日々―》 映像作品 2002年制作
copyright: 三田村光土里
2009年7月、別れは突然だった。三田村さんからの電話で、千佳さんがくも膜下出血で逝ってしまったと知らされた。翌年、私は「あいちトリエンナーレ2010」共催事業として、地元の小劇場を舞台としたアートプロジェクト【11】をキュレーションすることになる。三田村さんに参加を依頼し、その「再会」は千佳さんへのオマージュとなった。ブラックボックスの劇場空間での参加型パフォーマンス&インスタレーション《青い誘惑》は三日間だけの、特別な企画だった。三田村さんは謎の女として舞台上の小屋の中にずっと佇んで、観客に青い風船を膨らませて手渡す。囚われの女の代わりに、自由の象徴でもある風船を、空へと放ってくださいと観客に託すのだった。
あいちトリエンナーレ共催事業 『往還』 三田村光土里《青い誘惑》2010年 七ツ寺共同スタジオ
撮影:三田村光土里
あいちトリエンナーレ共催事業 『往還』 三田村光土里《青い誘惑》2010年 七ツ寺共同スタジオ
撮影:三田村光土里
久しぶりに、この時のインスタレーションの記録を見直した。当時は、運営の忙しさのなかで、うかつにも作品の細部に気がついていなかったのかもしれない。天井からは、照明の傘のようにたわわに連なる蝶を、三田村さんは設えていた。そうだ……千佳さんの葬儀の日、おおきな一羽の蝶が、ひらひらと軽やかに、そして優雅に翔んで舞っていた。あのとき、同じ情景のなかにいて、私は、たぶん三田村さんと同じような感慨を抱いていたのだろう。生きるとは、自由とはなにかと。
アーティストはうらやましい。私は、こんなにも長々と言葉を連ねないと、あるいは、10年も時を経ないと、「別れ」を受け止めて、他者に伝える心境にはなれないでいた。アーティストは、それを作品で気づかせてくれる。
ウィーンでの再会と乾杯を、千佳さんが見守ってくれていたのかなと、ふと思えた。
高橋綾子(美術評論家・名古屋造形大学教授)
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【1】アッセンブリッジ・ナゴヤは、名古屋の港まちを舞台に2016年よりスタートした、音楽と現代美術のフェスティバル。企画は服部浩之、青田真也、吉田有里。5回目の「アッセンブリッジ・ナゴヤ2020」は、2020年10月24日〜12月13日に、港まちポットラックビル、旧・名古屋税関港寮、Super Gallery、NUCO、名古屋港ポートビル展望室ほか、名古屋港エリア内で開催。三田村光土里は港まちポットラックビル、旧・名古屋税関港寮で展示。
http://assembridge.nagoya/2020/about.html
【2】「JAPAN UNLIMITED」展は、オーストリアと日本の国交150周年記念事業の一環で、2019年9月26日〜11月24日、ウィーンの複合芸術施設MQ(ミュージアム・クォーター)のfrei_raum Q21 exhibition spaceで開催。企画はイタリア人キュレーターのマルチェロ・ファラベゴリ、三田村光土里のほか、Chim↑Pom、会田誠、鷹野隆大ら19組が参加。展示内容が「反日的だ」と、外務省に匿名や実名で批判が寄せられ、在オーストリア日本大使館が公認を10月30日付で取り消した。
【3】旧・名古屋税関港寮での制作がはじまった2020年10月11日(日)から展覧会最終日の12月13日(日)まで、数日をのぞきほぼ毎日、その日の作業や所感を中心に文章が綴られた。公開制作の会場の壁に貼られ、アッセンブリッジ・ナゴヤや三田村光土里のfacebookでも紹介された。
【4】《Inventions》は、7th北九州ビエンナーレ『ART FOR SALE:アートと経済の恋愛学』2002年12月22日〜2003月2月2日、北九州市立美術館(企画:真武真喜子)で発表。会場には108脚の椅子が集められて、インスタレーションとして展示された。
【5】星新一「探検隊」は1961年の短編集『人造美人』(新潮社)に初出、1972年に再編集された短編集『ようこそ地球さん』(新潮文庫)に収録されている。最後の一文は、「あの怪獣どもは、やつらのペットで、タローとかジローとかいう名にちがいない」。
【6】「パノラマ庭園」をタイトルに継続するアートプログラムでは、造園家のジル・クレマンが著作『動いている庭』(山内朋樹訳、みすず書房、2015)で提示した「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」という態度を援用している。2020年の現代美術展「パノラマ庭園―亜生態系へー」では、三田村光土里のほか、上田良、L PACK、折元立身、丸山のどか、ミヤギフトシが参加した。
【7】旧・名古屋税関港寮での滞在制作のなかで、2階正面の会場ではずした畳を2階の奥の一室に積み上げ、「借り画廊」という名で知人作家の展示や、ゲストと三田村とのおしゃべり企画「立ち聞きアワー」、さらに海外の友人への「メールアート」も行った。
【8】映像作品《Till We Meet Again》(2013年)は、白井美穂・松井智恵・三田村光土里の連続個展「ロードショー」、2013年10月1日〜11月30日、 void+(東京) (企画:O JUN)にて発表。その後、「そらいろユートピア」展 2014年4月19日〜9月23日、十和田市現代美術館(企画:小澤慶介)に出品。今回の「アッセンブリッジ・ナゴヤ2020」においては、港まちポットラックビルで展示上映された。
【9】空想と創造Ⅱ「日だまりのホームシック」2001年3月3日〜3月25日、文化フォーラム春日井・ギャラリー(愛知)で開催。出品作家は三田村光土里、谷山恭子、申明銀、展覧会企画は高橋綾子。
【10】2007年にはじめて開催された「ながくてアートフェスティバル」に、地元のアートスペースとして誘われた芸術館「菩提樹」が、三田村光土里《インヴェンションーよく晴れたふつうの日々―》で参加。会期は2007年11月1日~11月11日。「菩提樹」主宰の大島千佳(1964-2009)は、ヤマハ音楽教室講師を経て、1990年ウィーンへ語学留学。帰国後、愛知芸術文化センターに勤務した折に、筆者と同僚となり交友を深めた。
【11】「あいちトリエンナーレ2010」共催事業として、七ツ寺共同スタジオ(名古屋)代表(当時)の二村利之を中心に、現代美術と演劇のコラボレーション企画「往還―地熱の荒野からー」を実施。美術プロデューサーとして高橋綾子が、三田村光土里、米山和子、栗本百合子のインスタレーション企画をキュレーション。三田村の《青い誘惑》は、9月10日〜12日の三日間、12:00〜19:00に実施された。
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高橋綾子
美術評論家・名古屋造形大学教授。岐阜市生まれ、北海道大学文学部行動科学科卒業。愛知芸術文化センター(愛知県文化情報センター)学芸員を経て2001年より大学教員となる。2003年に創刊(2002年創刊準備号発行)した芸術批評誌『REAR(リア)』の編集制作を中心に、美術評論と編集活動を継続。現代美術展の企画や運営にも取り組む他、戦後前衛美術への関心から、1965年夏に岐阜で開催された「アンデパンダン・アート・フェスティバル」(通称:長良川アンパン)の調査をライフワークとし、アートプロジェクトと地域についての調査研究を行っている。
三田村光土里
愛知県生まれ。東京在住。「人が足を踏み入れられるドラマ」をテーマに、日常の記憶や追憶のモチーフを、写真や映像、日用品など様々なメディアと組み合わせ、私小説の挿話のような空間作品を制作し国内外で発表。滞在型アートプロジェクト「Art & Breakfast」では、世界各地のアートスペースに滞在しながら鑑賞者と朝食を共にし、旅の中で見つけたモノや気づきから日々生み出すインスターレションが、生活の中に浮かび上がる世の中の問題や感傷を、ユーモアと批判的な眼差しを持って演じ、観る人々の内面に現れる物語を投影してく。
主な展覧会に、個展「Art & Breakfast ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア」(CAAM – Atlantic Center ofModern Art スペイン、2017年)、「あいちトリエンナーレ2016」(愛知芸術文化センター、2016年)、個展「Green on the Mountain」(ウィーン分離派館・セセッション、オーストリア、2006年)などがある。
https://www.midorimitamura.com/
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トップ画像:アッセンブリッジ・ナゴヤ2020 三田村光土里《Till We Meet Again また会うために、わたしはつくろう》 旧・名古屋税関港寮 インスタレーション
撮影:三田村光土里
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