見出し画像

APL、慕情、飯切、あるいは照手姫、レモンと剣、新子―――湊茉莉とシエニーチュアンの個展を巡って 杉田 敦

相模原は不思議な場所だ。面積的にはその大半を西部の山間部が占め、政令指定都市としての役割を担う東部には、相模原や相模大野などの都市部はあるものの、全体的な印象としては、隣接する東部の町田や南部の座間、大和、そして北部の八王子に侵食されて、象徴するようなものが希薄なのだ。もちろんそれこそが個性でもあるのだが、なかなかそれが正面から捉えられることはない。いやJAXAがあるじゃないかという人がいるかもしれないが、あくまでもそれは相模原というよりは町田の「少し先」にあるのだ。またそもそもそれは、遥か彼方の宇宙と交感しているという性格から、ひとつの都市に帰属させること自体が馴染まない。米軍基地にしても、相模原には住宅や補給厰があるのだが、これもまた印象としては、先ほど述べたように厚木や座間、あるいは福生が担っているというイメージがある。加えてこちらもまた、宇宙の彼方とまではいかないものの、海の彼方の本国と交信するのに忙しい。どちらも、そこに在りながらも、別の場所と通じているのだ。相模原の都市部は、こうした性格を象徴するかのように、これといった特徴なく、目立つような粗密もなく、国道16号線を軸にぼんやりと広がっている。そんな相模原の起点となる駅のひとつ、相模原駅から徒歩30分程度のところにパープルームギャラリーがある。周囲のそうした没個性的な印象が手伝っているというわけではないだろうが、その個性の際立ちについてはあらためてここで言うまでもないだろう。ギャラリー自体は四畳半程度とかなり狭いが、そんな場所に多くの美術関係者が足を運んでいる。残念ながら最近、ギャラリーとパープルームの入っている建物の建て直しが決まり、新しい活動場所を探さなければならないのだという。それに加え、主宰する梅津庸一が作陶のために信楽に出向いていて不在のときも少なくない。だが、そうした状況であるにもかかわらず、夏以降、興味深い展示が続いていた。[1]

湊茉莉の個展“Passage”は、信楽で梅津と作家が偶然出会ったことで始まったようだ。湊は馴染みない相模原を訪れ、彼女曰く、あるいは展示について解説するパープルームのメンバー安藤曰く、リサーチ・ベースの作品を作り上げる。とは言っても、ギャラリーで目につくのは、白い壁の上方に擦り付けるように引かれた刷毛の痕跡だけだ。厳しく削ぎ落とされた表現を目にして、なるほどと分かったように頷いて見せることは容易いが、ギャラリーの性格上、そうすることが躊躇われる。だが心配することはない、気取ることなく、途方に暮れた表情をしていれば、安藤がしっかりサポートしてくれる。リサーチしているときに見かけた風景の一部なんです。わからないですよね。でもわたしはすぐにわかりましたけど……。そんなようなことを言ってくれたような気がする。視覚的な情報は乏しい。けれどもそれを見て安藤は瞬時に理解した。でもこちらはわからない。これはコンテナの一部なんです。APLって読めませんか。ああ読めますね。でもAPLって何? それは後から調べた。アメリカ合衆国の海上輸送を担う会社で、その歴史は170年以上にもなるそうだ。米軍の施設もある街だから、それがどこかにあったとしてもおかしくない。安藤はそれを見慣れていて、会場に訪れた人の多くは、おそらくそれを目にしたことがない。いずれにせよここでは、ああこの街のどこかに、こうした風景があるわけかとある種の啓蒙が施される。いや果たしてそうなのだろうか?


湊茉莉個展「Passage」展示風景 Photo by Fuyumi Murata


湊茉莉個展「Passage」展示風景 Photo by Fuyumi Murata


リサーチ・ベースの作品の多くは、何かについてのリサーチの結果を、その知識を持ち合わせない人間に披露する。その意味でそれは、ある種の啓蒙に違いない。こんなこともあるのか、こんなこともあるのかと、その類の作品をめぐる人間は教育されていく。もちろんそうしたかたちの取り組み全般を否定するつもりはないが、どれもが似たような印象のものにしか見えなくなってくると、ひねくれた想いが頭をもたげてくる。果たしてこれは芸術がやるべきことなのだろうか? ある問題を目の前にしたとき、芸術表現の多くはそれについての知識を保持しようとする。いや、本当に知識を保持しているかいないかにかかわらず、知識を保持しているように振る舞おうとする。実際には、種々の問題の知識に関してはグラデーションがあるはずなのだが、芸術表現の多くはある特定の場所、わたしはわかっているという場所に立とうとする。リサーチ・ベースの作品には、作品が表現しようとするもの以上に、そうした素朴な欲望と対面させられているという印象がつきまとう。そんな欲望のことを一切気にかけなくてもすむような、情報をまったく手にしていない姿をさらけ出してくれるような表現者と出会うことはほとんどない。こうした傾向は、何によってもたらされたのだろうか。


安藤裕美《相模原慕情》 Photo by Fuyumi Murata


しかし、湊の展示に関しては、むしろ遠ざけられてきたもの、そのものを見せられたような気がする。個人的にはその気配に、考えさせられることが多かった。もちろん、安藤の助言に依るところも大きかった。ドローイングを眺めて奥に進むと、安藤の映像作品が流れている。「相模原慕情」。淡々とした日常を映し出すその映像は、パープルームの周囲に広がる何でもないような場所を巡っていくのだが、その瞬間々々が、ある意味ではすべてAPLでもある。言ってみればこの相模原慕情こそ、コモディティ化したリサーチ・ベースのアート然としているのだが、けれどもだからと言って真剣に覗き込むこともまた躊躇われるその映像は、意地悪く、ある種のパロディとして定型化してしまった表現を批判しているように思えてくる。そして、そこに示されている現実を見つめながら、湊が壁に残したストロークを思い返してみると、不思議なことに、ペラペラさこそを露呈させたそのリサーチを、素直に受け入れられるような気持ちになってくる。この感覚は、田中功起の“Someone's junk is someone else's treasure”を観たときのものと似ている。台風か何かで吹き飛ばされた椰子の葉を、真面目な顔でフリーマーケットで販売しようとする彼の姿を捉えた映像は、ソーシャリー・エンゲージド・アート的な姿勢をなぞりつつも、明らかにそれ自体空っぽであることを提示することで、その類に属するはずだと誤解されることもあるであろう作家の、素直な躊躇い、あるいは自省のように見えなくもない。あるいは田中も出展していた2017年のミュンスター彫刻プロジェクトのジェレミー・デラーにも似たような感覚を覚えた。作品自体は10年以上にわたる長期プロジェクトで、市民のための農園賃借制度の一画を借り受け、周囲の借主の活動を記録したファイルを並べたものだ。小さな庭、クライン・ガルテンにやってきた来場者は、それらを眺めては分け知り顔で頷いたりしているのだが、確かに植物についてのものが多いから、何か発見があることもあるのかもしれないが、それでもそれは何かを啓蒙するようなものではない。いや、啓蒙には違いないのだとしても、その内容は極めて希薄か、あるいは定型の知識を反芻しているに過ぎない。そもそもジェレミーが見つめているのは、庭のなかの出来事ではなく、庭を持つことに惹かれてやってきた人々こそなのだから。田中にもジェレミーにも、湊のAPLと安藤の慕情が同居しているような気配がある。いや、制作年を考えれば、順番が逆なのか。展示に際して制作されたブックレットには、梅津によるインタヴューが掲載されている。インタヴュー? いや、一方的に梅津が捲し立てる抱腹絶倒のそれもまた、APLと相模原慕情の構図を想起させる。梅津という慕情と、湊というAPL。果たしてそれこそが意図されていたのだろうか? 

パープルームギャラリーの展示は、展示もそうだが企画そのものに考えさせられるものが少なくない。市民団体の展示などのリサーチに基づき、無名の作家を取り上げた『表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。』や、美術予備校の絵画を取り上げた『青春と受験絵画』もそうしたものと言えるだろう。アートの世界は、種々の困窮や抑圧に目を向けるようになってはきたものの、足元で自分自身が踏みつけているものへの意識を感じさせるものは少ない。『表現者……』や『青春……』は、まさにそうした問題を突きつけてくる。しかもその告発は、明らかな告発というかたちで表明されるのではなく、あくまでも展示という形態を通して示されるのだ。こうしたリサーチやキュレーションの在り方は、定型のソーシャリー・エンゲージド・アートとは異なり、本質的な意味でその在り方を模索しているように感じられる。キュレーションにおける梅津の独特な平衡感覚は、重要であることは間違いないのだが、彼の個人としての活動の影に隠れがちだ。不運なことに、この原稿を書いているいまも、彼の個展、『ポリネーター』が注目を集めている。それに比肩しうる、いやそれ以上の意味があるというようなことを口に出すにはタイミングが悪すぎる。せめて自分自身を納得させる意味でも、この原稿を書き終えて落ち着くまでは、信楽で蓄積されたエネルギーが、遠く青山で噴出したかのような展示には近づかないでおくことにしよう……。[2]


秋に入ると、パープルームで、メンバーのひとり、シエニーチュアンの個展が開催された。展覧会には、1995年にセゾン美術館で開催された『視ることのアレゴリー』から採られたタイトル、『視ることのアレルギー』が冠せられていた。アレゴリー展を開催したセゾン美術館は、堤清二からの“7000 Oaks”(『樫(正確には楢)の木、7000本』プロジェクト)への支援に対する返礼として、ヨーゼフ・ボイスが個展を開催した西武美術館を前身とする美術館だ。プロジェクトの樫の木や、それに並んで埋められた玄武岩は、ドイツではいたるところで見ることができる。カッセルのフリデリチアヌム美術館の前にも、最初に植えられたものと、最後に植えられたものが並んでいる。一方、東洋の島国の美術館はすでになく、経営母体の企業グループももはや存在しない。展覧会ごとに作成される冊子のなかで、シエニーチュアンは展覧会に至る経緯を明らかにしている。パープルームギャラリーの隣の寿司屋でバイトをする作家にとって、コロナ禍による緊急事態宣言の影響で、休業を決めた大将を元気づけるという意味もあったのかもしれない。梅津に断られ、大将にも断られるということも予想されたはずだが、幸いにも二つのハードルはあっけなく越えられ、パープルームギャラリーと休業中のバイト先での展示が実現する。彼女の脳裏に、仕事を遠ざけられた大将への想いはあっただろうか? 何れにせよシエニーチュアンは、寿司職人がきっちりと握って皿に置くような手つきで、小ぶりのお皿に、少し数の多すぎる作品を差し出すことになる。


視ることのアレルギー パープルームギャラリー展示風景 Photo by Fuyumi Murata


シエニーチュアンのレモンと剣の描かれた作品は、個人的には惹かれるものだが、仕上がりすぎているという印象が気にならないわけではなかった。できることならば、未完の作品が放置されているような状況で目にしたかった。レモンに含まれるクエン酸は鉄でできた剣を腐食させることもできるし、剣についた錆を溶かして取り除くこともできる。その両義性が、彼女の作品にもあるような気にさせられる。古の絵描きに限らないのかもしれないが、手放すことなくずっと手元に置いて、手を入れ続けたというような話はよく耳にするが、作品を作品とする瞬間は、制作するのと同じように意味がある。その瞬間を境として、過程と結果は隔てられる。作品の制作は、作品に手を入れることをやめる瞬間こそであり、それは例えば、シャッターを切る瞬間のようなものなのだ。その瞬間が写真を写真にするのと同じように、その瞬間が作品を作品にする。そう話してくれたのはゲルハルト・リヒターだった。だからこそ、かつては一般的な映像の再生装置だったヴィデオ・デッキで、一時停止した際の十分とは言えない解像度のひとコマこそが静止画の本質だと考えたリュック・タイマンスは、あんなところでシャッターを切ってしまうのだ。そして結果として、過程のような完成が提示される。シエニーチュアンの場合は、完成しているような素振りだが、おそらくきっとそれはまだ完成していない。まだシャッターは切られていないのだ。きっちりと一皿々々仕上げる大将の手前、完成したように仕上げてはみたものの、実際にはそれは、いまだに過程にある。そんな気にさせられた。


視ることのアレルギー みどり寿司 展示風景 Photo by Fuyumi Murata


視ることのアレルギー みどり寿司 展示風景 Photo by Fuyumi Murata


そうした想いは、ギャラリーとは別に設けられた展示場所に向かうことで深められることになる。緊急事態宣言の解除が予想されるものの、未だに休業を余儀なくされているみどり寿司の展示会場には、ギャラリーの裏手から出て、勝手口と思しき扉から入り、厨房を抜けていくように誘われた。調理場は綺麗に整頓され、しんとしている。傍には大きな飯切が裏返されている。店内に入ると、小上がりには座布団が積み重ねられていて、いつものような活気がない。シエニーチュアンに促されて作品に目を向けると、そこには静まり返った空間のなかに身を潜めてはいるものの、すべてが活動停止した空気のなかで、唯一、息づいているものが目に入る。確かに、すべてが停止している空間のなかで、シエニーチュアンの作品は救いだった。だが同時に、いつものみどり寿司を知っているものとしては、あの活気ある空間のなかでもはたしてそれはそうした存在でありうるだろうかという疑いが頭をもたげてくる。幸い、会期の半ばほどで緊急事態宣言は解除されることになり、大将は店を再開することにする。二度目に訪れたとき、ギャラリーからみどり寿司へは、裏口ではなく、正面から導かれることになった。店は活気を取り戻し、活きいきとしている。伏せられていた飯切には、幾度となく炊き立てのご飯が広げられたことだろう。ところではたして、唯一息づいていたものはどうなっているのだろうか。目に入ってきたのは、以前のように空間のなかで屹立しているような印象のものではなく、むしろ空間と連続し、そこに紛れ入っているような印象のものだった。とは言っても、決して悪い印象だったわけではない。むしろ活性化するというような肩の荷を下ろし、静かに自然体で佇んでいるとでも言えばよいだろうか。大将は季節外れの新子を握ってくれた。今年は出荷が遅かったとはいえ、新子にとって8月がぎりぎりの限度だろうし、しかも6尾づけをベストとすれば、2尾づけという最低限の仕上げだ。もちろん、そうした状態であるにもかかわらず新子を握ってくれたのは、休業を余儀なくされてきた職人の意地であり、心意気だろう。そうしたエネルギーの発露は、シエニーチュアンが望んでいたものだったはずだ。それが戻ってきたのであれば心配することはない。精気を取り戻し始めた空間のなかで、シエニーチュアンの作品は、安堵したとでもいいたげに、周囲に馴染み溶け込んでいけばいい。もはや屹立する必要もない。気丈にも完成を急いでいたかのような作品は、そうした装いを脱ぎ捨てて、過程であることを静かに呼吸し始めているかのようだった。


やまももサワー 撮影:筆者


てるて公園 撮影:筆者


新子と共に注文しなくてはならないものがある。やまももサワーだ。パープルームTVで、近所の公園でやまももを採る安藤とシエニーチュアンの様子を見ることができる。てるて公園。説経節の小栗判官を支えた照手姫ゆかりの地はパープルームに程近い。そうした縁からか、やまももの木のあるパープルーム裏手の公園はその姫の名前を戴いている。自家製のやまももを使ったサワーは甘すぎず、寿司の味を邪魔することがない。同行者やギャラリーで紹介されたアーティストと話が弾み、久しぶりの大将の握りに舌鼓を打っていると、ますますシエニーチュアンの作品の気配は後退していく。けれども、ひょっとするとこの展示はそれこそを目指していたのではないかとも思えてくる。はからずも手を休めざるをえなかった職人の仕事場で怪しく輝き、再び精気が戻るための儀式を執り行ったレモンと剣が、大役を果たし、静かに自らの気配を後退させていく。アレゴリーもアレルギーも、どちらもギリシア語の‘allos’、「別の」という言葉を語源の一部としている。シエニーチュアンの展示も、展示そのものとは「別の」何かを見せようとしていたということもありえないことではない。そういえば、あの説経節で、美濃の国の遊女屋まで流れ、常陸小萩と名を変えた照手に、餓鬼阿弥陀仏に身をやつした小栗の乗る土車を引かせたのは、目に見えるものの下に隠れる別のものを見抜く力を訴えるためではなかったか。いやいや、そんな話は出来過ぎている。適度に酔っ払った来場者たちには、夜風が心地よく、誰からともなく相模原駅まで歩こうということになる。ふと、この地にありながら、どこか遠い場所と交信しているJAXAや米軍のことを思った。確かに同じように、パープルームも、アートという、固有の場所に係留するのが相応しくないものと交信している。だが同時に、夜風に吹かれる精神は、充分過ぎるほどの交感があったことに気づいてもいる。いつの間にか、目にする光景は、相模原慕情のようになっている。鑑賞者たちのとりとめのない会話は駅まで続いた。横浜に向かう電車の戸口付近にもたれてぼんやり外を眺めていると、一瞬、見覚えのある形状が見えたような気がした。APL? 過ぎ去る光景を慌てて振り返ってみたが、すでに車窓は漆黒に包まれていた。


相模原駅へ帰り道 撮影:筆者


[1]2021年11月時点
[2]同上

見出し画像 湊茉莉個展「Passage」展示風景 Photo by Fuyumi Murata

杉田 敦
美術批評 女子美術大学芸術学部美術学科芸術文化専攻教授




編集注:
湊茉莉個展は2021年8月、シエニーチュアン個展は2021年9月末から10月初頭にかけて開催されました。その後、杉田 敦さんから原稿をいただいたあと、編集部都合で掲載までに時間が経ち2022年8月の掲載となってしまいました。
今と同じくコロナ禍でありながら、当時は緊急事態宣言の下に自粛が求められ、コロナ感染への恐怖や危機感から、外への出歩き展示巡り外食をすることへ抵抗感を感じられていたと思います。そんな中で行われた展示です。ほんの1年前ですがそんな緊張感と自粛明けの開放感を思い出しつつ読んでいただきたく思います。


2022年、みどり寿司の新子 撮影:みそにこみおでん




レビューとレポート第39号(2022年8月)