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松澤宥探訪 ―松澤宥 生誕100年祭 舩山康太

1.はじめに
この文章は、2022年1月29日から3月21日まで長野県諏訪市下諏訪町で開催されていた「松澤宥 生誕100年祭」のレポートを通して、美術家・松澤宥とその作品の魅力に迫るものである。

まず、私の「松澤宥」への関心について述べておきたい。私が松澤に初めて触れたのは、美学校で2019年度に受講していた中ザワヒデキ文献研究[1]においてであった。そしてその後、カスヤの森現代美術館[2]と、パープルームギャラリーでの展示[3]で実際に作品を目にした。それらを通して松澤作品の不思議な魅力もさることながら、松澤自身にとても興味が湧き、彼を理解するには下諏訪に行く必要があると感じていた。そのため、松澤の地元に行くことができる今回の展示を心待ちにしていた。

2.下諏訪へ
さて、私が下諏訪に向かったのは2月11日の早朝だ。新宿へ向かい、7時発松本行きの始発、特急あずさに乗った。その前日は東京で大雪警報が発令され、長野行きの特急は全て運休していたが、当日は快晴で無事長野へ向かうことができた。八王子を通過してしばらくすると窓の外は真っ白になった。
下諏訪に着いたのは遅延もあって9時37分ごろであった。下諏訪は降雪が少ない地域らしいが、たまたま大雪の次の日に来てしまったようだ。日差しは強いが気温は低いので、道路はバキバキに凍っている。家の周りを除雪する人は午前中は少なく、皆昼前ごろからゆっくり除雪し始めるようだった。歩いていると暖かいが、立ち止まると急に冷えてくる。


3.諏訪大社下社秋宮へ
駅前の観光案内所で生誕祭のパンフレットを入手し、早速旧松澤宅の近くのまちなか展示へ向かった。しかし開場の時間からはだいぶ早かったようで、予定を変えて諏訪大社下社秋宮へ向かうことにした。諏訪大社下社秋宮は松澤の生家のすぐ近くにあり、松澤が小さい頃から慣れ親しんだ場所だったようだ。ここの御柱祭[4]は日本随一の奇祭として有名で、社の四隅に設置されている「御柱」という17メートル以上の樅の木の柱を7年毎の寅と申年に建て替え、その新しい柱を人力で山から曳いてくるという、1200年以上続いている祭りである。今年はちょうど御柱の年なのだが、新型コロナウイルス感染症の影響で、史上初めてトレーラーによる、人力を使わない曳行を行うのだそうだ[5]。



4.諏訪湖博物館・赤彦記念館へ
諏訪大社の澄んだ空気を吸って爽快になってから、それでもまだ時間があったため、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に足を向けた。諏訪湖博物館・赤彦記念館では、「松澤宥と諏訪の友人たち/みんなで諏訪湖に作品を見せる!」展が開催されており、松澤の初期から晩年までの作品をはじめ、長沼宏昌による「プサイの部屋[6]」の写真・映像作品、ワークショップで地元の方々が制作した作品などが展示されていた。展示パネルの内容は美術家の松澤というよりは「人間・松澤宥」の視点から書かれており、今まで掴みきれなかった松澤宥の人物像が浮かびあがってくるようだった[7]。ここで展示されているドローイング作品は大きなものが多く、良作揃いであった。


5.まちなか展示へ
その後ようやくまちなか展示へ向かう。まちなか展示は展示そのものを鑑賞する面白さもあるが、やはりその街を歩くことに意味がある。この展示から受け取ったことで特に強調したいことは以下の3点である。

まず、松澤の膨大なドローイングの量に対する驚きだ。この下諏訪の展示ではどこに行ってもおおよそ松澤のドローイングが展示されていた。しかも1点2点ではなく何点もあり、飾られていないものも膨大にあるとのことだ。これらは全て「オブジェを消せ[8]」以前に描かれたということだから、長野へ帰ってきて20年ほどの間[9]に描いた作品だろうか。どの作品も絵の具ではなく、鉄や墨など身近な材料で描かれており、それは建築科を出た松澤らしいと言えばそうでもあるが、戦後で絵の具など簡単に手に入らなかったという事情もあったのかもしれない。この作品の「量」というのは重要だと思う。定時制中学で数学の教師をする傍ら[10]、これほどまでに絵を描かなくてはならなかったという事実が興味深い。そして、それを1964年を境に一切やめてしまったことと、それらの膨大な数の作品がほぼ表に出てきていないことが不思議に感じられた。


次に、下諏訪を理解することがそのまま松澤を理解することにつながる、という点だ。青木英侃(ひでなお)のアトリエに伺った際、氏に承知川(しょうちがわ)[11]と砥川(とがわ)[12]という川のことを教えていただいた。これらの川は下諏訪にとって重要な川なのだそうだ。どちらの川も諏訪湖に流れ込んでいることは同じだが、その上流が異なっている。承知川は諏訪大社下社秋宮の近くを通って諏訪湖に流れ込んでおり、その上流は諏訪大社下社御射山社[13]までつながっているらしい。この御射山社というのが、松澤が「消滅の幟(のぼり)[14]」のパフォーマンスを行った場所であり、そのすぐ近くの山(松澤家の山らしい)に「泉水入瞑想台[15]」を設置したのだそうだ。また、砥川というのは下諏訪のもう一つの諏訪大社、諏訪大社下社春宮の近くを流れて諏訪湖に流れ込んでいる川であり、その上流では黒曜石がごろごろ採れるのだという。松澤は自分の作品に下諏訪のアニミズム的な要素を取り込むことで、自分のルーツを辿ろうとしているようにも見えるし、そのことで自己言及的な作品を作ろうとしているようにも見える。しかし、第三者からするとアニミズム的な不思議さがそのまま松澤の不思議さに重なって見えるのだ。

最後に、松澤の周りの人の声を聞くことにより、所謂神秘的な存在としての「松澤宥」ではない松澤の人物像を知ることができた点だ。当時、松澤は地元では美術家としてはほとんど知られておらず、一部の仲の良い人たちの中でのみ知られていたそうだ。地元ではもっぱら定時制中学の数学の先生であった。松澤が定年退職したのは1982年だが、教師であったことが作品の自由度にどの程度影響していたのだろうかとも想像した(「滅亡」や「死」という言葉を作品中で使えるか等)。しかし、今よくある松澤展ではそういった松澤の実生活についてはほとんど語られず、神秘的な存在として語られることが多い。そういう意味で、このような話を聞くことのできる機会は貴重であった[16]。

青木英侃のアトリエ


6.まとめ

では、そろそろまとめようと思う。私は今まで松澤の展示をいくつか見てきたが、今回の下諏訪訪問によって松澤宥の人物像がより具体的に見えてきた。私が感じる松澤の魅力というのは、美術に対する姿勢、人生に対する姿勢が、作品から感じ取れる点である。作品を見ても、一見非常にわかりにくい(わからない)ことを表現しているのだが、そこには、誰か(鑑賞者)に伝えたいという想いが一貫してあるようだ(例えば、松澤はパフォーマンスをする際に必ず「立会人」を置いた)。その伝えたいことが何であるかを具体的な言葉によって語ることは難しいが、その何かは非常に重要なことであるように感じるし、それを伝えたいという姿勢によって、松澤の作品は美術作品たり得ているのだと思う。今回は特にドローイングが非常に多かったため、松澤の筆触を辿る鑑賞となり、作者である松澤の存在を現実のものとして強く感じた。今回の展示を通して、そのような生々しい「人間・松澤宥」とオブジェを消した後の松澤が作品を通して地続きで繋がり、そのことで松澤作品をより具体的に見ることができるようになったと感じる[17]。

後注
[1]2019年度まで美学校で開講されていた、美術家中ザワヒデキによる講座。<https://bigakko.jp/course_guide/art_mediation/nakazawahideki/info
[2]2020年1月〜3月にカスヤの森現代美術館で開催された展示「松澤 宥《80年問題》」。<https://www.museum-haus-kasuya.com/yutaka-matsuzawa/
[3]2020年2月〜3月にパープルームギャラリーで開催された展示「松澤宥―イメージとオブジェにあふれた世界」。<https://parplume-gallery.com/松澤宥―イメージとオブジェにあふれた世界/
[4]御柱祭については公式ホームページ<https://onbashira.jp>を参照のこと。
[5]遠藤和希、「いつもと違う御柱祭、トレーラーで『山出し』諏訪大社」、『朝日新聞デジタル』 、2022年4月8日、<https://www.asahi.com/articles/ASQ4853XCQ48UTIL002.html
[6]「下諏訪の自宅を『虚空間状況探知センター』、そこにある自室兼アトリエを『プサイ(ψ)の部屋』と呼ぶ。『プサイの部屋』の命名者は美術評論家瀧口修造。」松澤宥 生誕100年記念サイト、生涯を知る11のエピソード3、3.自宅をアートに?「虚空間状況探知センター」と「プサイの部屋」(1950年ごろ?〜)、< https://matsuzawayutaka.jp/episode_detail03/
[7]「オブジェを消せ」前夜として、1964年の「読売アンデパンダン展」開催終了について言及されていた点が印象的であった。
[8]「1964年6月1日真夜中に『オブジェを消せ』との声を聞き、三日三晩考えた挙句にそれ以降絵画、オブジェなど今までの美術制作を止め、文字だけを使って表現しようと決意。」松澤宥 生誕100年記念サイト、生涯を知る11のエピソード5、5.真夜中の声「オブジェを消せ」(1964年)、<https://matsuzawayutaka.jp/episode_detail05/
[9]「終戦後1964年に早稲田大学卒業。(中略)東京の建築事務所に就職後、1948年に帰省。」松澤宥 生誕100年記念サイト、生涯を知る11のエピソード2、2.戦争時代と2度のUターン(1940年代〜50年代)、<https://matsuzawayutaka.jp/episode_detail03/
[10]「諏訪実業高校定時制下諏訪分校(諏訪大社秋宮山王台下、今の下諏訪中学のプールの場所にあった)で数学を教えながら、地元で詩人、画家として芸術活動を開始。」前掲
[11]Geoshapeリポジトリ 国土数値情報河川データセット、承知川、<https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/850505/8505050727/
[12]Geoshapeリポジトリ 国土数値情報河川データセット、砥川、<https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/850505/8505050722/
[13]信濃國一之宮 諏訪大社ホームページ、御射山祈願<http://suwataisha.or.jp/misayamakigan.html
[14]松澤宥 生誕100年記念サイト、生涯を知る11の作品、5.ピンクののぼりで人類に檄(警告)!〜「消滅の幟」(1966年〜)、<https://matsuzawayutaka.jp/art/06/
[15]「1971年に松澤と仲間たちは下諏訪諏訪大社の背後の山中『泉水入』(せんすいいり→素敵な名前!)という場所にある松澤所有の土地にツリーハウスを建て、『泉水入瞑想台』(せんすいいりめいそうだい)と名付けました。」松澤宥 生誕100年記念サイト、生涯を知る11のエピソード6、6.仲間たちとの「ツリーハウス」と夜を徹したフェス(1970年代)、<https://matsuzawayutaka.jp/episode_detail06/>
[16]例えば、松澤は写真撮影することもあったそうで、青木から当時のエピソードを交えながら松澤が撮影した青木家の家族写真を見せていただいた。また、父・靖恭と松澤は協働して作品制作することが多かったそうで、長野県立美術館の「生誕100年 松澤宥」で展示されていた《のぞけプサイ亀を翼ある密軌を》(1962)の床に置かれた細長い2枚の平面作品は、靖恭が手がけたとのことだ。
[17]松澤宥に関する私のツイートと関連する展示のツイート(2019年11月から現在まで)をtogetterにまとめていますので、よろしければご覧ください。「松澤宥探訪〜不定形な作家の実像を求めて」<https://togetter.com/li/1850828



舩山康太
1987年山形県生まれ。2011年東京外国語大学外国語学部モンゴル語専攻卒業。2016年-2019年美学校「細密画教場」、2020年「中ザワヒデキ文献研究」受講。

レビューとレポート第35号(2022年4月)