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祝い掛軸と武者幟絵に見る「美術」と「産業」―佐野市郷土博物館・葛生伝承館レポート 志田康宏

1.美術館で扱えない絵画

 美術館で勤務していると、「先代が集めていた掛け軸やなんかが家にあるから見てほしい」という依頼の電話を受けることがたびたびある。そこから有名作家の知られていなかった作品や知られざる作家の傑作が見つかることもあるし、美術館に収蔵する作品が発見されることもあるため、とても重要な依頼である。しかし、そこには美術作品のようでありながら「美術館では扱いにくい作品」が含まれていることがあり、扱いに悩むことがある。本稿ではそれら「美術館では扱いにくい作品」の中で、特に栃木県に特徴的に見られる作品群の一例を示し、歴史ある絵画でありながら美術館で扱えないということがどういうことなのか考えてみたい。


2.佐野掛地と武者幟絵

 栃木県佐野市葛生くずう地区(旧葛生町)にある葛生伝承館では、4年に一度ほどのペースで「佐野掛地かけち」を展示する展覧会を開催している。2021(令和3)年10月30日~2022(令和4)年1月23日、佐野掛地を展示する『祝い掛軸展』が開催された。


葛生伝承館『祝い掛軸展』会場風景 画像提供:佐野市葛生伝承館


 「佐野掛地」とは、栃木県の佐野地域で明治から昭和にかけて量産されていた「際物きわもの」の一種である。際物とは、特定の季節や時期に限定して使用される物品のことで、お正月の門松や三月・五月人形などがそれにあたる。掛地は、子供の誕生を祝し、そのつつがない成長を願って親類縁者から初正月、初節句祝いとして贈られた掛け軸状の祝い物で、破魔矢(弓)や羽子板、雛人形、鯉幟こいのぼりなどの贈答品の代用として使用されていた。絵柄としては、男児向けには武将や鍾馗しょうきなど、女児向けには雛人形や美人図などが多かった。掛地の一大産地であった佐野で生産された掛地を「佐野掛地」と呼ぶが、その歴史や作品については、佐野掛地を大量に収集し研究を積み重ねた郷土研究家・藤田好三氏の編著『佐野掛地祝い絵図鑑―下野とちぎの民画』(しもつけの心出版、2017年)が詳しく、本稿も本書を参照軸に考察する。
 藤田氏の編著書によれば、佐野地方は北関東の一大際物産地として知られてきたが、そのはじまりは幕末頃であり、明治時代になって定着し発展したものの、戦後は日本の生活環境の変化により衰退していったとのことである。本書には昭和30年代初頭に佐野際物製作組合が制作したパンフレットの一部も掲載されているが、そこには当時の際物生産額の記載があり、「掛軸」と書かれた掛地の生産量は40万本、額にして2300万円(当時)であり、三・五月人形や羽子板、外幟そとのぼりなどを含む際物全体では1億2千万円(当時)もの生産額が記録されている。掛地を含む際物は佐野地域の主要な産業であったことがわかる。
 佐野掛地は、「武者幟絵のぼりえ」にそのルーツのひとつがあると考えられている。武者幟絵も際物の一種で、男児の健康な成長を願い端午の節句に屋外に掲げられる幟である。鯉幟と同種のもので、鯉幟と武者幟絵が並べて掲げられることもある。のちに説明するように佐野掛地には作者が不明なものが多いが、武者幟絵には志賀美酬しがびしゅうという有名な作家が存在した。初代美酬の志賀恵三郎(1952年没)、二代美酬の利一による武者幟絵は特に人気が高く、「佐野市無形文化財技能保持者 志賀美酬」と堂々と記名された作品が現在も地域に数多く残されている。しかし、「最後の武者幟絵絵師」とも呼ばれた二代志賀美酬・利一が2000年に逝去したことによって、佐野の武者幟絵生産は途絶したとされている(近年、市内の人形製造「長竹人形」が復活させた)。佐野市郷土博物館では、常設展示室に志賀美酬による大きな武者幟絵が展示されている。


二代志賀美酬(利一)による武者幟絵(佐野市郷土博物館常設展示) 筆者撮影


 今回の『祝い掛軸展』展示作品の制作年代は、ほとんどが推定であるが大正~昭和期の作で、際物としての種類は男児・女児向けの正月飾りが多く、男児向けの五月飾りも一部含まれる。男児向け掛地の画題としては、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを描いた川中島の戦いの場面、加藤清正の虎退治、一の谷の戦いにおける鵯越の逆落としなどが描かれた、強い男子になるようにとの願いが込められた「武者絵」、女児向けには常盤御前、舞美人などの美しい女性になるようにとの願いが込められた「美人絵」、また良い縁談に恵まれるようにと願われた祝言や天皇家の御成婚の場面を描いた「花嫁衣裳」などに分けられる。掛地の画題の豊富さについては藤田氏の編著書を参照されたい。
 掛地において興味深いのは、画面を分割して複数の絵柄が組み合わされている作品が多いということである。《加藤清正の虎退治》においては、豪傑として知られる加藤清正が勇猛果敢に虎を抑え込まんとする雄姿が色鮮やかに描かれているとともに、画面上部のわずかな空間に日の丸と松竹梅を背負った破魔弓が描かれている。


《加藤清正の虎退治》 画像提供:佐野市葛生伝承館


 そもそも男児向け初正月用掛地は、祝い物としての破魔弓に代えて贈られるようになったという歴史を持つもので、その名残が下段や上段に描かれる破魔弓を象った弓と矢とうつぼ(矢を入れて腰につけ持つ運ぶ容器)にある。しかしその独特な画面分割による破魔弓の印は大正期の初めごろには描かれなくなり、武者などの人物だけが中央に大きく描かれる絵柄に変わっていった。
 ちなみに騎馬武者などの男児向け掛地の絵柄は明治初期頃に流行していた破魔弓につけられた押絵おしえ製のいくさ人形に由っているそうである。佐野地方は際物の一種「押絵人形」の産地でもあった。江戸期の薄い平坦な「押絵」に対して、綿を入れ表面が浮き上がった「浮絵うきえ」と呼ばれた仕様の押絵が明治期に佐野地方で作られるようになった。浮絵も明治末ごろには廃れてしまったが、掛地の中には押絵を差し込んだ押絵人形付掛地も存在する。
 《牛若丸と弁慶―五條の橋にて―》は画面を上下に2分割し、上に富士山と日の出を背景にした幟と刀、下に牛若丸と弁慶の戦いの場面が描かれる。源義経(牛若丸)は掛地でも人気の画題で、兄・頼朝と出会う黄瀬川の対面や鵯越の逆落としなどの画題が多いが、中でも京の五条大橋で牛若丸の腰の太刀を奪おうと挑みかかる武蔵坊弁慶との戦いの場面が描かれた作品が多い。


《牛若丸と弁慶―五條の橋にて―》 画像提供:佐野市葛生伝承館


 古くからの習わしとして、子供の誕生を祝い、そのつつがない成長を願って親類縁者などから初正月や初節句の祝いとして、男児には鯉幟や武者人形、女児には雛人形などが贈られる。それらの祝い物を佐野地方の絵師や画工たちが、明治期の早い頃から描き、掛け軸に仕立て贈り物として全国に多数送り出していた。
 画面を上下に分割して、家紋や鍾馗などが描かれた外幟や鯉幟こいのぼりを上部に描くことは、それらの幟が本来贈られるもので、掛地がそれに代わる品であることが示されている。下部には尚武の思いの籠もった武将などを描く作品が多い。
 《御成婚》も画面上部一割ほどの空間に、富士山と空を舞う鶴を背景に七福神が龍舟に乗ったおめでたい画題が描かれている。


《御成婚》 画像提供:佐野市葛生伝承館


 明治~大正時代、栃木県では結婚はそのほとんどが見合い婚で、恋愛婚は「ナレアイ」と呼ばれ軽蔑されていたそうだ。結婚は本人たちの相性よりも家柄や血筋、職業、財産などが重視され、最終的には親同士によって決められていた時代であった。掛地に見られる婚礼の図柄には、そのような時代における理想的な婚礼の様子が華やかに描かれている。このような婚礼の景を描いた絵柄は大正中期ごろから登場したもので、女児の理想的な将来像を描いたきらびやかで豪奢な絵柄として人気を得、数多くの作品が作られた。
 本稿ではごく一部の紹介しかできないが、これだけでも掛地が非常に特殊な産物であること、またその多様性や鮮やかな画面などがお分かりいただけると思う。

 なお現在にまで残っている掛地には傷みが激しく状態が悪いものが多いが、そもそも掛地は際物として短期間の使用が想定されたもので、後世にわたってまで保管・活用されることが想定されていないため、さほど良質な表装がなされていないことがその理由にある。


3.「美術」と「産業」

 「自宅にあるから調査してほしい」「美術館に寄贈したい」という依頼の中にこれらの掛地や武者幟絵が含まれていると、美術館で扱うことが途端に難しくなる現実がある。栃木県内でもこれらを美術館で収蔵している例はなく、博物館や郷土資料館などが収集や展示の対象としている。美術の論理に照らすと、これらの作品を「美術」として扱うことが難しいためである。そこには、これらの作品を美術館で展示・収蔵できるかという実務的な問題と、作家性の有無の問題などが複雑に絡んでいる。
 掛地や武者幟絵は、実は栃木県が指定する「伝統的工芸品」になっている。生産者からの申請に基づき、県で調査のうえ「栃木県伝統工芸品振興協議会」で協議し、その協議結果に基づいて知事が指定するというもので、2019年11月までに71の品目が指定を受けている。これは1974年に制定された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」を背景とするもので、国からの指定においては5つの条件をすべて満たし、経済産業大臣の指定を受けた工芸品を「伝統的工芸品」とすることになっている。2021年1月までに全国で236の品目が国からの指定を受けている。
 「佐野節句かけ軸」「佐野武者絵のぼり」、また市貝町にある武者幟絵の生産家・大畑家で四代続く「大畑耕雲」による武者幟絵もあり、町内で大畑武者絵資料館として公開されているが、これらも栃木県の伝統工芸品に指定されている。県の管轄部署は工業振興課である。

 では工芸品であれば美術ではないのか、という問題も美術ジャンルや管轄部署の境界線上に位置しており、磁器や陶器、織物、ガラスなどの工芸作品で美術館に収蔵・展示されているものも多く存在するため、一概には言い切れない。国からの伝統的工芸品の指定を受けている「益子焼」は、栃木県内にとどまらず全国の美術館で収蔵・展示されている。
 別の観点から考えると、そこには作家性の有無という問題も含まれているかもしれない。掛地や幟絵には落款印章を入れることが少なく、作者がわからないものが多い。制作した人物を明かさない作家性の希薄さが、美術として捉えることの難しさの理由のひとつとなっている。佐野市郷土博物館の茂木克美館長によれば、掛地は工房のような場所で大人数で分業制作する方法がとられていたため、記名することが少なかったのだという。掛地を描いた絵師・画工たちは、かつての佐野際物の主力であった武者幟・鍾馗幟・描絵かきえ羽子板などを描いていた人たちであったそう。その後それらの人たちの指導を受け修練した人たちが作品を描いたが、その中には農閑期に技術を身につけた農家の人が数多く含まれており、後に掛地の画工や職人として独立した人たちも少なくなかったと言われている。佐野掛地の中には落款がある作品もあるが、その多くは昭和期に作られた新しいもので、その銘は掛地生産業者等の作銘・屋号のような意味合いを持つもので、同銘の掛地は数多く見受けられる。

 また、掛地と「日本画」の違いについても考えてみたい。和紙や絵絹に膠を使って水干絵具や岩絵具で絵付けを行った絵を掛軸装するという、日本画と何ら変わらない技法と材料で制作される掛地や武者幟絵であるが、それらが日本画として扱われることもほとんどない。武者絵の大家として明治~昭和初期に活躍し、聖徳記念絵画館壁画揮毫者の一人にも選ばれた旧小中村(現佐野市)出身の日本画家・小堀鞆音こぼりともとの父である須藤晏斎すとうあんさいは、佐野で際物の絵入れを行う絵師であった。鞆音自身も大成して以降、雛人形や五月の節句用武者絵等の際物を、知人の依頼によって比較的気軽に引き受けて描いていたとされている。鞆音による作品の中には掛地や武者幟絵にもみられる朱墨で描かれた鍾馗図などもあり、それらは県内の美術館にも収蔵されている。また佐野出身の陶芸家で人間国宝にも選ばれた田村耕一も人形製造卸を営む家に生まれたとされている。日本を代表する美術・工芸作家を輩出してきた佐野地域であるが、その源泉は無名の画工や職工を多数抱える職人の町であったと言うこともできよう。

 微妙な立ち位置にある掛地や武者幟絵を含む伝統工芸品が美術館で扱えないことは、産業製品であったという歴史や、作家性の希薄さなどを含む様々な理由から致し方ないことだとしても、そのことを明確に説明できる学芸員は少ないと思われる。ミュージアムの責任の取り方としても、施設で扱えるもの・扱えないものの境界線については、そのあいまいさの説明も含めて言語化できるよう努力が求められるべきではないだろうか。葛生伝承館での『祝い掛軸展』や佐野市郷土博物館での武者幟絵をはじめとする際物の常設展示は、そのヒントと情報を提供する重要な活動であるといえる。


佐野市郷土博物館外観 画像提供:佐野市郷土博物館


参考文献:藤田好三編著『佐野掛地祝い絵図鑑-下野とちぎの民画-』しもつけの心出版、2017年

見出し画像提供:佐野市葛生伝承館




志田康宏(栃木県立美術館学芸員)
1986年生まれ。栃木県立美術館学芸員。専門は日本近現代美術史。主な企画展覧会に「展示室展」(KOGANEI ART SPOT シャトー2F、2014)、「額装の日本画」、「まなざしの洋画史 近代ヨーロッパから現代日本まで 茨城県近代美術館・栃木県立美術館所蔵品による」、「菊川京三の仕事―『國華』に綴られた日本美術史」(栃木県立美術館)など。artscapeで「コレクション」を考えるを連載中。




祝い掛軸展
2021年10月30日(土曜日)~2022年1月23日(日曜日)
葛生伝承館
栃木県佐野市葛生東1-11-26
https://www.city.sano.lg.jp/sp/kuzuudenshokan/tenrankai/kaisai/18566.html


レビューとレポート第32号(2022年1月)


注記:タイトルへ追記しました(2022年1月24日)