常設展レビュー番外編② 対話もポリフォニーも同じ声である―『トライアローグ』と『絵画の見かた』― 志田康宏


序論


 「コレクションを使った企画展(=コレクション展)」を取材対象とする常設展レビュー連載番外編の第2弾として、横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館の3館で共同開催されている『トライアローグ』展[1]を取り上げたい。日本の主要な地方公立美術館3館のコレクションを結集した企画で、日本の美術館のコレクションの強さを存分に生かした展覧会となっている。今回は横浜会場での展覧会を取材した。
 また比較対象として、同時期に開催されていた『絵画の見かた』展[2]についても考察し、「絵画とは何か?」という論題と共に、日本で美術を語ることの困難さについて考察したい。


1.『トライアローグ』展


 横浜美術館での『トライアローグ』展会場入り口に掲示された「あいさつ」文によると、本展は近現代西洋美術を収集の柱としてきた3館のコレクションを組み合わせて20世紀西洋美術の歴史を振り返るものであるそう。「トライアローグ」とは「3者による対話」を意味する言葉で、3館の学芸員が話し合いを重ねて展示内容を決めていったことを示しているという。
 「3館」であることにかけて「30年」区切りの「3章」構成になっていて、20世紀美術の世界的動向をわかりやすく捉えることのできる内容となっている。
 第1章「1900s―― アートの地殻変動」は、20世紀初頭に興ったキュビスムやフォーヴィスム、表現主義を特集し、パブロ・ピカソを皮切りに、アンリ・マティス、ヴァシリィ・カンディンスキーといった代表的な作家を並べる。中でもパウル・クレーの作品を比較して見ることを誘導するコーナーはわかりやすく、興味深かった。
 第2章「1930s―― アートの磁場転換」は美術の主流がヨーロッパからアメリカに移った時代の変化を示し、マックス・エルンストらシュルレアリスムの作家、またジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の展開も紹介される。ポール・デルヴォーの蠱惑的な作品を3点並べた壁面はこの章を象徴するかのような存在感を放っていた。
 第3章「1960s―― アートの多元化」では、第二次世界大戦後に多様化していく芸術の様相が提示される。イヴ・クライン、アンディ・ウォーホル、ゲルハルト・リヒターら20世紀後半の世界的作家が目白押しの豪華な展示で展覧会が締めくくられる。

 誰もが知る有名な世界的美術作家がずらりと並び、十分に見ごたえのある内容ではあったが、率直に言ってしまえば、なぜ「日本の美術館のコレクション」を「20世紀の西洋美術」に代表させているのか?という点が最大の疑問であった。「日本の美術館」を代表させるのであれば、日本美術に限定すべきとまでは言わないが、日本美術も含ませるべきではなかったのだろうか。あるいは、時代やジャンルを限定すべきではなかったのではないか。
 そして、そのことに対する批判的自己言及が少なくとも会場では見られなかったことにも疑問が残った。日本の美術館のコレクションが西洋絵画を中核に形成されてきたことは歴史的に正しく、確かである。しかし、そのことの是非を問う姿勢は美術館として必要なのではないだろうか。
 また、展示作品は絵画を中心とするもので、20世紀美術の特徴である様式の多様化をあくまで絵画を主軸にして説明しようとしているような窮屈さをも感じた。
 そもそも「対話」を前面に押し出す必要性はあっただろうか?会場で感じたのは「著名作家・名品の展開」であって、「3館の対話」ではなかったというのが正直なところだ。言い換えれば、これだけの名作や有名作家を揃えた名品展の場合、作家や作品が主な鑑賞対象なのであって、個々の作品がどこの館の所蔵品であるかについては、見る側にはほとんど関心がないということだ。また展覧会の構成を30年区切りの3章構成にし、「3」という数字にこだわったとのことであったが、その必要性にも疑問を感じた。展示を見た限りでは、3館共催であるという以上にその数字にこだわる意味が見いだされることはなかったからである。
 展覧会を通して聞こえてきたのは「3者の異なる声」ではなく、3者がひとつのスピーカーから声を出した「モノローグ」であるように感じた。また、「3者の対話」という方法と「20世紀西洋美術」というジャンルが必ずしも結びつく事象ではないので、「3者の対話」をテーマにした展覧会がなぜ「20世紀西洋美術」に限定されてしまうのかにも疑問が残った。


2.『絵画の見かた』展


 『トライアローグ』展と同時期に√k contemporary(東京・神楽坂)で開催された『絵画の見かた』展は、そのような疑問に対する対照的な論点を提示していたように思う。この展覧会は、美術家・梅津庸一を監修に迎えて特集「絵画の見かた」を編んだ『美術手帖』2020年12月号を「副読本」とし、梅津監修の元に企画された。会場となるのは銀座で30年に亘り積極的に日本美術を顕彰してきた加島美術が「次世代を担う優れたアーティストを広く紹介していく場」として2020年3月にオープンしたばかりのギャラリーである。
 『美術手帖』の特集は、多様化する絵画の本質に立ち返る事をテーマに、美術作家を中心に、コレクターやギャラリスト、研究者などの複数の立場の声を集め、ポリフォニー的に「絵画」の「見かた」を提示しようとした内容で、単一的な「絵画の見かた」の不可能性を暗示するような内容であった。

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『絵画の見かた』展会場風景
Photo by Fuyumi Murata

 高級感あふれるきれいな展示室には、梅津のチョイスによる時代も場所も様々なタイプの絵画作品が並んでいる。岡鹿之助や杉全直といった王道の美術史に名を刻む作家の作品も展示されていながら、木下晋や落田洋子らベテランの現役作家、ここ数年で頭角を現し始めた弓指寛治や服部しほりといった新進気鋭の若手作家、さらには郊外で暮らしながら公募展への出品を続ける續橋仁子や、梅津がネット上で作品を見かけたことで誘われたという新人作家ペロンミの作品に至るまで、多種多様な作家が「絵画」の名のもとに集められ並架されている。
 各作品の脇には数字のみが小さく掲示されており、作者や作品名を知るためには入り口で配られた解説用紙を逐一確認しなければならない。そのため、著名な作家の作品も無名な若手の作品もシームレスに混在した展示空間が構成されており、鑑賞者には歴史や名前といった権威に基づかない鑑賞姿勢が求められる。
 本展に対する疑問は主に2つ感じた。ひとつは、絵画をテーマにした展示でありながら、最初の展示作品が映像作品であったことだ。ただ、その内容は絵画や「鑑賞」をテーマとしたような作品であり、この展覧会のイメージビデオのような位置づけであるのだろうと理解した。
もうひとつは、陶作品が点々と展示されていることだった。「絵画の見かた」と題された本展における立体作品の展示には、誰しもが「これは絵画なのか?」という疑問を抱いただろう。表面への着色やテクスチャの造成という意味において平面作品と共通する部分もあり、また平面作品でありながら立体性を孕んだ作品はルーチョ・フォンタナをはじめ数多くの前例がある。そのあたりの解釈を以てこれらの陶作品も「絵画的である」という理解をすることはもちろん可能であるが、あくまでレトリックにすぎないと指摘することもまた可能である。
 しかし、それによって「絵画の見かた」の「正解」を提示することの不可能性が暗示されているように感じた。我々は「絵画」というあってないような定義に惑わされ、「絵画の見かた」を狭めてしまっているのではないか、というメッセージを梅津は発信しているのではないだろうか。少なくとも筆者はこの展覧会を通し、歴史やヒエラルキー、批評といった他者性をまとった既存のバイアスに囚われずに絵画を見ていく姿勢が必要なのであるというメッセージを受け取った。


3.ひとつの声は語り方で変化する


 『絵画の見かた』展の主たるねらいは、教科書的な美術の歴史を解体し、既存のヒエラルキーを脱した「絵画の見かた」を提示することであったように思う。それであるから、地域で活動するほとんど知られていない作家や、梅津がネット上で見つけたという全くの新人の作品すらも織り交ぜて展示されているのである。『トライアローグ』展では極めて教科書的で王道のヒエラルキーに則った展示が、他方で『絵画の見かた』展では既存のヒエラルキーを解体した見かた(見せかた)が、それぞれ展開されていたと言い換えることができるだろう。そしてそれは、どちらかが正解でどちらかが不正解というわけではない。どちらもあくまでひとつの「見かた」であり、それぞれの歴史の語り方にすぎない。ふたつの展覧会の位置づけを考えると、「慣習に縛られた公立美術館」に対する「インディペンデントな若手芸術家からの批判」というわかりやすい図式になってはいるが、しかしふたつの対照的な展覧会には、共通する大前提がある。それは、どちらもあくまで「絵画」の見かたを考察対象としていることである。『トライアローグ』展も、一部にアルベルト・ジャコメッティらによる彫刻やアレクサンダー・カルダーによるモビールなども含まれるが、基本的には平面作品を中心にした展示であった。ジム・ダインの《芝刈機》(愛知県美術館蔵)を展示作品に含めているように、「平面の絵画だけが美術作品ではないはずだ」という、美術史の中で絵画が持つ矛盾を逆説的に肯定してしまっている歴史認識をまとった展覧会であることが示唆されている。
 『絵画の見かた』展が成立するのは、『トライアローグ』展が体現しているように、西洋美術、なかでも絵画を中心として成層されてきた日本の美術界の歴史があるからだ。冒頭で記した「なぜ20世紀西洋美術で日本の美術館コレクションを代表させているのか?」という疑問は、日本で美術を語るには、そのような歴史性に則らざるを得ないからであるという、いささか自虐的なトートロジーに陥らざるを得ないのだ。これが「悪い場所」であることの呪いであるならば、このふたつの展覧会は、日本の美術界がまとってきた歴史を体現している同じ声の異なる聞こえ方にすぎないのかもしれない。

志田康宏(栃木県立美術館学芸員)

[1]トライアローグ 横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション 2020年11月14日(土)~2021年2月28日(日) 横浜美術館
https://yokohama.art.museum/exhibition/index/20201114-566.html

[2]絵画の見かた reprise(梅津庸一監修・企画) 2021年1月16日(土)~ 1月31日(日) √K Contemporary
https://root-k.jp/exhibitions/yoichi-umezu-approaches-to-paintings-reprise/

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編集より
横浜美術館よりトライアローグ展の画像提供を受けられませんでしたので、絵画の見かた展のみ画像掲載しております。ご了承ください。

レビューとレポート第23号(2021年4月)