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『荒野の避雷針」1話

【あらすじ】
スマホも携帯もなかったあの頃のお話。
インディーズバンドのヴォーカリストと付き合い始めていた吟子だったが、実はずっと忘れられない相手がいた。
それは初恋の女性。
親友はレズビアンで、今のところ恋愛は順調。
けれど吟子の心は男の恋人と、片思いの女性の間を行き来する。
「私はこのままでいいの……?」
そんな中、親友が恋人と破局。
それでも前を向く彼女に、吟子は自分を受け入れることを許せるようになる。
あらゆる人に届けたい、恋愛だけでない物語。


【一】
 
 スローバラードのラブソングは、どうしても好きになれなかった。晴れているのに降ってくる雨は、まるでクーラーの外気扇から飛ばされる湿気の滴のように生温かったし、暑中お見舞い申し上げている絵ハガキは、大きすぎる入道雲模様のために定形外料金を取られる。二年も泳ぎに行っていないと、周りから浮くような肌の色はただ虚しいだけで、清楚でも上品でもなかった。
 やっと半分が過ぎた今年の七月は、やがて冬が来るとは思えない程暑い。
 
 壁一面がガラス窓になっている真新しい局舎で、吟子(ぎんこ)は今週、切手を売っている。
 東向きの窓から射す太陽は強すぎて、午前中はいつもブラインドの向こう側だ。おかげで壁に当たって返ってくるクーラーの冷風だけが効いてくる。それでも汗ひとつ流さず仕事ができる環境にいられるのだから、この季節何より喜ばしいことだとよくよくわかっている。
 赤黒い顔をしてシャツを汗で身体に張り付かせ、自動ドアを開けるとまるで聖域にたどり着いたかのように安堵し、用件が済んでもしばらくはそこに留まっているたくさんの客を、吟子は去年の夏も見た。その前の年は、自分もそんな客の一人であったかも知れない。
 けれど時折、あの強い太陽の下に出ていきたいと思うことがある。非番日でも週休でもない普通の日に、客の誰もが羨んで厭味さえこぼすその座席を離れて、ただ蒸し暑いだけのガラス窓の外へ駆け出したいと。
 それは屈折した現実逃避であり、純粋なないものねだりであり、蜃気楼のような空想でありながら、心に浮かぶ一番強い願望だった。
「でもさぁ、何て言うかね、私から見ても向かない仕事やってるじゃない、吟子」
 一カ月ぶりに会う親友のセリフがこれだ。学力の違いのため、高校時代の三年間は別に過ごしたが、中学時代からの付き合いである。
 田村葉月(たむらはづき)、短大二回生。情けも遠慮もない物言いは、付き合いの長さよりも彼女の性格による。
「ま、生涯独身を通そうって女が就くにはたいしたごちそうよね、天下の国家公務員だもの」
「誰が生涯独身だ。私は嫌になったら辞められる仕事だよ。たとえ天下の給料泥棒でもね」「贅沢者」
「今日のディナーは誰の奢りだ?」
 本気で言ったなら恥をかくような言葉だけのディナーではあるが、貯金魔である葉月のフトコロ事情にすれば立派な夕食だ。とりあえずナイフとフォークを使えば様(さま)にはなる。
「感謝してるってば。まだしばらくは辞めないでいてよね」
 ふ、と吟子は笑みをもらす。
 葉月のこの多少無遠慮なストレートさが、疲れた身体と萎えかけた神経には不思議と心地良い。出逢い方が違えば恋に落ちていたかも知れないと、まるで客観的にしみじみ思ったりもする。
「……向いてないってことは、誰より本人が一番よくわかってるよ」
 愚痴っぽくならないように、かと言って無理にも見えない程度にさらりと吟子は言う。
「性格だね」
 葉月は理由(ワケ)知り顔で少し笑った。
 吟子が陳腐な慰めを期待しているわけではないことはわかっている。もともと他人に何やら相談を持ちかける性格ではないし、聞いてやるタイプでもない。どちらかと言うと自分に閉じこもりがちな彼女だから、時折めずらしくこぼす言葉には容赦なく対応してやる。
「向かなくたって、慣れれば同じよ。私だって自分が学生証持ってるのが不思議だわ」
「同感だ」
 フォークをくわえたままあっさり切り返す吟子を、葉月は大袈裟にナイフで指す。
「頭いいくせに大学蹴った人に言われたくない」
 申し立てを軽くあしらって、吟子は再びメニューを広げている。チョコレートパフェとレアチーズケーキで迷いながらテーブルの端に置かれたベルを鳴らし、どう見ても入りたてらしいバイトのウェイトレスが現れたのでコーヒーゼリーに決めた。
「金と経験が欲しかったんだよ」
 注文した後もまだメニューを手にしたままの吟子に注目していると、不意に溜め息混じりの声。目が合って、どちらからともなく口唇だけで笑みを作る。
「で、それは得られたの?」
「それなりにね」
 決して満足そうではなかったが、そんなものだと妥協できる範囲内にはあるようで、葉月もそれ以上は何も言わなかった。
 おぼつかない手つきと足取りで、さっき注文をきいたウェイトレスがコーヒーゼリーを運んできた。手元を見たらいいのか足元に注意を払うべきか、どちらかにしか集中できない意識で別のことを考えているように見える。
「コーヒーは嫌いなくせに、昔からコーヒーゼリーは好んで食べるのねぇ。高校のクラスメイトにも、味噌ラーメンは嫌いだけど、味噌汁なしの朝食なんて邪道だとか言ってた子がいたわ」
「そりゃ、朝は味噌汁と卵焼きっていうのが純日本家庭の然るべき姿じゃないですか」
「そういうもんかしら」
 そんなことよりも、吟子のスレンダーな身体に不似合いな胃の大きさの方が葉月にとってはいつもながら不思議だ。食べた物を縮めて収める機能でもついていそうに思える。吟子なだけに、あながちあり得ないとも言えないからなおのことだ。
 大きなガラス窓の向こうに行き交うヘッドライトが、時折彼女たちにも眩しい。
 結局更にレアチーズケーキを注文した吟子と呆れ顔でコーヒーをすする葉月は、この一カ月間に得たささやかな噂話や雑談に興じ、ディナーと称したファミリーレストランを後にした。
「どう? うち来る?」
1DKのマンションに一人暮らしの葉月の部屋は、意外と女らしい生活感が漂っている。ウッドチェアーの上の留守番電話と、ベッドサイドのパキラが吟子のお気に入りだ。
「突然行っちゃっていいの? ハニーがいたらどうしようかな」
「今更心にもないこと言わないの」
 同じ方向に歩き出しながら信号を二つ渡ると三叉路だ。別れるならここでそれぞれの道を選ぶ。
「けどごめん、今日はほんとにやめとく。ここんとこ寝不足でさ」
 実際目の下に隈を作っている。理由を訊けば、「何となく寝るタイミングが掴めなくて」と吟子はとぼけた顔をする。確かに、彼女になら有り得ることだ。実際に日常生活に差し支えない程度の不自由を意外な非常識で持ち合わせている。
 彼女が病気でも何でもなく、呼吸するのが下手だったりするという事実を知っている葉月は、苦笑いを浮かべて「お大事に」とだけ言った。
「吟子、その後山瀬とはうまくいってる?」
 じゃあ、と言いかけた吟子を引き留めるように、葉月の声が追ってきた。聞こえないフリを決行できる程の距離はなく、困ったように視線を落とし、それから空を仰いでうーんと唸った。
「それなりにね」
「賢明な返答です」
 茶化すように言って、葉月の方から先に背を向けた。歩くリズムに合わせて規則正しく、伸びてきたショートヘアが揺れていた。
 
 バッグから鍵を取り出すのとほぼ同時に、ちょうど扉が開いた。
「──吟。今帰り?」
吟子と同じ切れ長の目をした細身の青年。
「ただいま。お兄、これから出るの?」
「おう、お前は」
「風呂入って寝る」
「健全だな」
 お陰様で、と内心苦笑して、入れ違いに兄の康之(やすゆき)の背中を見送った。自分は中に入って二つの鍵を閉める。リビングで翌朝の下ごしらえをしている母親に帰りを告げ、そのまま自分の部屋に上がった。
 微妙に色味の違うモノトーンの印象。ビジネスデスクの上に無造作に置かれた二通の手紙。差出人の名前を見る。
「……」
 小さくこぼした溜め息は、どちらも待ち侘びていたものとは違うことを指している。
 通信教育のDMと遠い友人からの薄い手紙の封も切らず、吟子はそのまま着替えを持ってバスルームへ向かった。
 
 慌ただしく始まった月曜日、前日の残り客を掃く火曜日、手持ち無沙汰で一日が長い水曜日、木曜日。多少の差はあれど、だいたいそんな調子で一週間の仕事は流れていく。
 土日の連休を前に午後から忙しくなる金曜日を、上の空な気持ちで吟子は過ごしていた。「いらっしゃいませ」
 自動ドアの開く音に対して反射的に、まるで感情の込められていない言葉が口を突く。切手を売る。小包を引き受ける。時々愛想笑いを作って馴染みのオバサンと言葉を交わしたり、うんざりしている気持ちを苦笑いに留めて、お年寄りの内容の見えない話を聞いているフリをしたりする。そしていつも、そんな不自然でいい加減で屈折している自分が、何よりも嫌になるのだった。
 ガラス窓越しの夏の日差しが吟子にだけ眩しい。視界が明るい程何故か気持ちは沈んでいき、真夏の蒸し暑い空気にさらされることを強く欲した。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


【2話リンク】
https://note.com/preview/nb54fc85d48ea?prev_access_key=d161555b87cd892a88ea71ff80c091b0

【3話リンク】

https://note.com/preview/n407dab5c9856?prev_access_key=1e6b255370c995bc0d2f83de5ff72b5f

【4話リンク】

https://note.com/preview/ne596b20d98b8?prev_access_key=eeaa060972556fa50e39599fd5189d53

【5話(最終話)リンク】
https://note.com/preview/n533fdf5b5db1?prev_access_key=c857f7bb11e925dde2ef9842e180cd62

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