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『荒野の避雷針』3話

【三】
 
 駅の噴水の周りは、朝と打って変わって人で溢れ返っていた。
 そこまでなるべくゆっくりと歩きながら考えていたことを、実行するか否かでまた少し悩む。臆病な自分に苛立って顔をあげると、使用中だった四つの公衆電話のうちの一つが空いて、ポツンと人と人の間に見えた。まるで吟子を誘っている。もしくは挑発している。
 きっと出ない。いないに決まっている。土曜の午後、たくさんの人。今頃どこかで、知らない誰かと、多分いるのだろう。
 それなのに。
 吟子は黄緑色の四角い電話の前に立っている。心の中で否定しながら期待している。指が震えながらプッシュボタンに触れる。ほとんどかけたことはないのに、身体が覚えている数字たち。
 遠くで呼出音が聞こえ、近くでもう一度鳴った後、相手の受話器が上がる気配がした。
「はい、もしもし?」
「──嘘、何でいるの?」
 自分からかけておいて失礼極まりない。しかし心の中にどっと押し寄せてくる波を抑えるので精一杯だった。
「え? 何、誰、高篠(たかしの)さん……?」
 自信のなさそうな声が疑問符を付けながら、それでも自分の名を呼んで確認する。とにかく今はそれだけでも嬉しくて仕方がない。
「ごめん、そうだよ。美緒、元気?」
 多少しどろもどろ、けれど顔の筋肉が弛んでいるのがわかる。ここが個室ならもっと自分らしく話せるのに。
「わぁ、びっくりしたぁっ。何でいるのなんて言うから、バイトあるの忘れてたかと思うじゃない」
「ごめんごめん。いないと思ってかけたから」
「いますよー。今朝になって約束キャンセルされたから、何して時間つぶそうかと思ってたところ。せっかく早起きしたのに」
 拗ねて頬をふくらます美緒が目に浮かぶ。
「じゃ、デートしようか」
 公衆電話であろうとかまわなかった。自分が思う程他人は自分のことばかり見ているわけではない。社会人になってやっとわかったことだが、都会の世の中は冷たくもあり、無干渉さがかえってありがたいことも多々あるものだ。
「今から?」
「そう。ダメ?」
「んー、出るのめんどう」
「なら、今から行くよ。一時間以内に着く。熱い紅茶の用意して待ってて」
「熱いのって暑いよー」
「だからいいの。じゃ、あとで」
 迷惑を意味する言葉が返ってこないかと、しばらく黙って受話器を耳に当てていたが、当の相手は何の躊躇いもなく電話を切った。かくして来訪の許可を得た吟子は、胸を撫で下ろす想いだった。
 
 立ちっぱなしで八駅、乗り換えて六駅、時間にして約四十五分。暑苦しい満員電車も、空気の悪いホームも、生温かい風の吹く階段も、全て山瀬美緒の部屋に続く道だと思うだけで違って見えた。ヒロヤに会うために出掛けた今朝の気持ちとも違うことは、吟子自身認めている。それとこれとは、全然、違うのだ。
 自転車でもあればすぐなのだが、自分の降りる次の駅から小走りで約十分。八階建のマンションの入り口で、カッコつけてギリギリの時間を言うんじゃなかったと半ば後悔の念にかられた。
 時計を見てから深呼吸し、ガラス扉の脇にあるパネルに『二〇二』とプッシュする。程なくして美緒の声が返ってきた。
「はい」
「あ、高篠ですけど」
「はーい、今開けます」
 チャッ、という音が鍵が開いたことを知らせる。吟子は重いガラス扉を押して、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がった。部屋の前でもう一度チャイムを鳴らす。すぐにロックをはずす音がして、久しぶりの美緒の顔がのぞいた。
「ちーっス」
「はろぅ、鍵かけてね。スリッパは出さなくてもいい?」
「いいよ。客じゃないんだから」
 玄関にはものすごくたくさんの履物が所狭しと並んでいる。持っているもの全てを無造作に置いてあるようだ。小さい方が美緒の、大きい方が同居人のものだろう。一目瞭然で小さい方が多い。中には明らかに冬用の、スウェードのロングブーツまである。
 友達と二人暮らしという新築賃貸3DKマンションは、葉月の部屋よりずっと広くて雑然としている。女同士だとこうもなるのだろうか。もちろん個人の性格にもよるのだろうが、とても男など呼べたものではないように思えた。そして不意にそんなこを考えてしまった自分に気付き、人知れず苦笑する。安心した、と。
「紅茶入れてくれる?」
 文字通り、座るところもないようなリビングの一部分をかきわけて、吟子は自分の居場所を作る。美緒は口では文句を言いながら、流し台の下の開きから紅茶の缶を選んでいる。
「アップルティー、バニラティー、ローズティー、カモミールにブルーベリー、オレンジペコ、これはー、えっとラベンダーかな?」
 早口で次々と読み上げていく。すぐに選ぶのは困難だと気付き、あとは聞き流した。
「どれがいい?」
「アールグレイが飲みたいなーぁ」
「そんなものはありません。贅沢言うと入れてあげないぞ」
 人差し指を立てて忠告してくる。吟子の好きな仕草だ。
「じゃあ美緒の気に入ってるやつ」
「んー、全部気に入ってはいるんだけどね。じゃ、人気なくて一番余ってるマンゴーティーにしよう」
 言うなり木箱を取り出して、紫の花模様の白いティーポットに葉を入れる。コンロの上の笛吹きケトルがすぐに鳴き声を上げる。一時間前の電話ですでに用意されていたことを思わせて、吟子は嬉しくてたまらなくなる。
「ねぇ、何か話してよ」
 テーブルの上に二つ分のティーカップを置くスペースを作りながら。
「はい、これがマンゴーティーです。砂糖は?」
「三つ」
「甘ーいっ。気持ち悪いから減らして」
「じゃ、二つでいいや」
 美緒が角砂糖を指でつまんでカップに入れる。銀色の小さなスプーンでかきまぜる。本物のマンゴーは食べたことがなかったので、それが確かにマンゴーティーだったかどうかはよくわからない。ただ何となく、美緒に入れてもらった紅茶を飲むのが好きだった。
「バイトは?」
「お休み」
「明日は?」
「何とかホテルで結婚式の料理の用意。こないだのとこはねぇ、すごくおいしい洋食だったの。余ったら最後に食べさせてくれるんだけど、一度だけ手をつけて残してあるやつなんか、すっごい腹立つのよね。混ぜるだけ混ぜて食べない奴もいるの、マナーってもんがなってないと思わない?」
 派遣会社で配膳のアルバイトをしている美緒は、思ってもみない程タフだ。毎日の出勤時間も通勤経路も内容も違う仕事なんて、吟子にはとても耐えられない。決して規則正しい生活をしているとは言えないが、前日の午後になるまで翌日の仕事が何時にどこで何をしたらいいかもわからないなんて、精神的に苦痛でしかない。きっと性格的な問題だろう。
「世の中そんな奴がいかに多いかってことよ。私なんか毎日そんな奴らを見て仕事してるんだから。生きる希望って何? って気になる」
「自分もどこかでそう思われてるかと思うと、だんだん性格がよくなってきそう」
「前向きだね」
「後ろ向きじゃないだけよ」
 しばらく会わないうちに、ちゃんと世間にもまれてるじゃない、と吟子は少し偉そうに思う。
 自分と同じように高卒で入った会社を、一年も勤めないうちに辞めてしまうなんて、一体何を考えてるのかと猛反対したのは吟子だった。だいたい辞める理由もはっきりと決定的なものはなく、「だってフリーターの方が儲かるし」と美緒が言っていたのを覚えている。
 特別お金に困るようなこともないくせに、学生の頃からやたら時給のいいバイトを捜したり、時間の許す限りバイト先に入り浸っていた。他人のことにとやかく干渉するつもりはないが、美緒の経済観念に関しては密かに心配していたものだ。
「バイト、楽しい?」
「まぁ、それなりにね」
「儲かってるわけだ」
「とぉんでもない。ここの家賃高いし、電気代と電話代で半分なくなるもん」
「それは自業自得ってもんでしょ。贅沢言わないの」
「はぁい」
 やけに素直な美緒の頭に手を置いて、吟子はクシャクシャとなでる。学生の頃はずっと長かった髪を、一度就職した時に肩まで切り揃えて以来ずっとその長さを保っている。
 それから少し、美緒が熱狂しているアイドルグループの話をし、吟子は葉月と観たアクション映画の話をした。お互いがお互いの興味のない話と知りながら、自分のために話す。なんだかとても哀しい気持ちになるのだが、吟子は誰とでも時々そういう話をした。葉月とでも、ヒロヤとでも。そしてそんな自虐的な行為をしている自分を客観的に見ることができる時、何故か説明のつかない安心感が湧き起こるのも事実だった。
「そうそう、タカちゃんに彼氏ができてねー」
 ふと思い出したかのように美緒が切り出す。
 タカちゃんというのはルームメイトの田中という女の子のことだ。同い年とは思えない程しっかりしていて頼れる。吟子も何度か会って、食事などもしたことがあった。彼女なら美緒のルームメイトとして認めても──そう吟子の独占欲の許容範囲に収まったので、彼女とも結構うまく付き合えているのだ。
 その彼女に恋人ができたとは。
「へぇ」
「写真見せてもらったんだけど、結構カッコイイんだよ。電話もかかってくるんだけど、すごい優しいしゃべり方で、大人ーって感じなの」
「ふぅん」
「友達紹介してもらってあげようかってタカちゃんが言うんだけど、こっちからお願いするのって変じゃない」
「……そういう問題なの?」
 いけない、と思った時には言葉が刺だらけで飛び出していた。吟子は慌てて取り繕う。「変、とかそういうこと言ってる場合じゃなくてさ」
 どうしてか、ものすごい勢いで涙が込み上げてくるのがわかった。それをこらえるので精一杯で、なかなか次の言葉がでてこない。情けなかった。美緒の口からそんな言葉を聞いただけで、自分はこんなにも取り乱してしまうのか。
「どっちかって言うと、紹介とかってなんか気ィ遣いそうだし、特に美緒って何でも断れないタイプだから、やめた方がいいと思うな」
 美緒がじっと見ている。少し困った目をして、吟子がまだ何か言うのを待っている。
「私は、美緒にあんまりそういうことはしてほしくない。大きなお世話かも知れないけど、心配だよ」
 ミオガ、スキダカラ。
 声になったかどうかは自分でもわからない。ただ美緒は、相変わらず困った目をしている。
 出会った頃からいつもずっとそうだった。美緒は誰の前でもかわいらしいわがまま娘で、吟子は美緒といる時だけ駄々っ子になる。まるで理想とは正反対だったが、そんな自分を受け入れてくれる彼女との関係が特別なもののようで、最高に居心地がよかった。
 いつからだったか、今になってはもうわからないけれど。吟子は美緒に対して、友情とは呼べない愛情を抱いていた。
「そんな顔しないでさ」
 バツが悪くなり、吟子は照れ笑いで美緒を小突く。今更自分がそんなことを言える立場でないことはわかっていた。ヒロヤという男の恋人がいて、週末ごとに彼に会いに出掛ける。それは自分で選んだことであって、楽しみにしていることも事実だ。しかしそんなことは、美緒にはもちろん、親友の葉月にさえ言えずにいた。罪悪感が先に立つ。彼女たちに対して、彼に対して。
 誰を納得させられる言い訳も持ち合わせていない吟子はただ、たとえ矛盾していようとも、自分の気持ちに嘘はつくまいと決めていた。いつか責められることになってもいい。今この想いを殺せるくらいなら苦労はないのだ。もしくは、この想いを野放しにできるのなら。
「まぁ、ね。単に私がヤキモチ妬きなだけなんだけどさ。美緒も苦労するね」
「苦労した方が老けないって言うから」
「何言ってんの」
 ふっ……と美緒が微笑んだ。
 この笑顔だ、と思う。
 美緒が好きだ。好きになってもらえたら嬉しい。できれば抱きしめたい。キスしたらどんな感じがするだろう。それから……。
 そんな気持ちも、あっと言う間に弾け飛んで泡になる。いつか手の届かない所へ消えてしまいそうな予感。それならいっそここで、シャボン玉にでもなってくれたらいいのに。
 
 しばらくして、美緒の同居人から帰宅を告げる旨の電話があり、夕食の当番なのを忘れていたと大慌てする美緒と部屋を出て、駅の近くのスーパーマーケットで別れた。
 二十分も歩けばようやく家に着く。一階の車庫に車がないところを見ると、兄も外出中のようだ。きっと家族で一番に帰宅したのは吟子なのだろう。
 リビングルームのクーラーをオンにして、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐ。留守番電話の黄緑色のランプが点滅しているのに気付き、そのボタンを押すと、葉月の声が聞こえてきた。帰ったら電話してほしいというメッセージ。時間は三時半頃。
 葉月から電話なんて珍しいことだ。会って話す方が好きだと言う言葉の通り、電話では何日の何時に何処(どこ)でといった最低の用件しか話さない。そんな彼女が、土曜日の午後に一体何の用だろう。
 不思議に思いながら吟子はつけたばかりのクーラーを切り、自分の部屋に上がって再びオンにした。子機を取ってソファに落ち着く。一回のコールですぐに繋がった。
『もしもし』
 無愛想な葉月の声。受話器越しのせいか、少し鼻にかかっている感じがする。
「もしもし、私」
『吟子……?』
 残念そうな響きを感じるのは気のせいだろうか。
「そうだよ。葉月、風邪? どうしたの」
『どうしたもこうしたも。やってられないわ』
 言葉は怒りを表しているが、口調はどこか諦めをにじませていた。
『今から……ダメかな。夕飯はごちそうするから』
 そこまで言うからには余程のことなのだろう。十中八九、恋人のことだと予想できる。それ以外に葉月をこんなに動揺させられることなど、吟子には思いつかないからだ。
「──わかった。今から行くから待ってて。本当に行ってもいいんなら」
『待ってる。急いでないから気を付けてね』
 相手が先に切るのを確認してから、吟子はそっと子機を置いた。
 白いカットソーとデニムのショートパンツに着替える。バッグの中身を確認してから洗面所へ行き、クレンジングでファンデーションを落として洗顔する。シャワーも浴びたかったがそんな時間すら惜しい。
 思い出したように紙を取り出して、『田村さんの家に行きます。夕飯は食べてくる。吟子』と書き置きを残し、玄関の鍵を閉めた。
 同じ中学校の校区内にいれば目と鼻の先の距離だったのに、葉月が短大に進んで一人暮らしをする際に引っ越したことで、お互いに自転車で十五分もかかることになってしまった。電車の最寄り駅はどこも徒歩十分はかかってしまうし、バスのタイミングを間違うと二十分は待ち時間で無駄になってしまう。免許の類を持っていない吟子にとって、自転車が唯一の交通手段なのだ。
 その分どこよりも安かったという葉月の住むマンションは、美緒のところのように数字の並んだパネルや重々しいガラス扉などはない。派手な造りではないが、全体的にはきれいで落ち着いていて、葉月の言うように掘り出し物といった感じがした。
 郵便受けが並ぶ入り口のところで中から出てくる人とすれ違う。ちょうどいいタイミングでエレベーターが待っていたのでそれに乗り、三階で降りて一番奥の部屋のチャイムを押した。
 返事はなく、突然ドアが開く。
「葉月、一体何……」
 言いかけて言葉をなくした。目の周りを真っ赤にした葉月が、恥ずかしそうに目を逸らす。鼻声にもなるわけだ。電話のせいでなく。
「まぁ、入ってよ、散らかってるけど」
 本当だった。明らかに人為的な跡がある。もともと物の数は少ない部屋だったが、その多くが床に投げ出されていて、もの寂しい雰囲気を漂わせていた。ケンカをしたのならさぞかしひどいものだったのだろう。
「何か、飲む」
「ん、適当なのでいい」
 吟子が答えると彼女は冷蔵庫を開け、缶コーラを二本出してテーブルに置いた。
「ビールでもあれば良かったんだけどね」
 そう言って少し笑う。
 葉月のこんな表情を最後に見たのはいつだっただろう。あの時はもう二度と見たくないと思った。どうしてやることもできないのがよくわかっていて、自分自身がとても哀しかったから。葉月の身になってというよりも、他人事としてしか受け止められない自分の思いやりのなさを痛感したのだ。
 あれからどれだけ前向きに成長したかは自覚がない。けれど今回は、気のきいた言葉のひとつもかけられないまま、黙って歯痒い気持ちで自分を憎んで終わりたくはなかった。
「ビール、買ってこようか?」
 葉月はプルタブにかけた指を止めて吟子を見る。考える様子を見せたのは一瞬だけで、すぐに引き出しから財布を取り出した。二つの缶を冷蔵庫に戻す。
「さんきゅ。一緒に行こう」
 近くと言っても、吟子の自転車に二人乗りで五分近くかかるコンビニエンスストアしかない。そこで缶ビールを二本だけ買った。酔って管を巻くのでなく、冷静に話をしたかった。缶ビールはそのきっかけのための小道具なのだ。
 再び葉月の部屋に戻り、テーブルの上に二本の缶ビールを並べる。夏季限定販売という見出しにつられて決めたのだが、吟子の父親が好きなメーカーだったので、飲んでみれば吟子にも親しみのある味なのかも知れない。
 座る前に葉月が、酒飲み親父みたいと言ってカッテージチーズを出してきた。乱雑に散らかった部屋の中で、テーブルの上だけがほんの少し平和に演出されていた。
「さて、だいぶ落ち着いたところで、聞いてもらおうかな」
 まだ赤い目をしているが、声はもういつもの葉月だった。
「急に呼び出してごめんね。最初は誰にも会いたくない気分だったんだけど、それを過ぎたら今度は寂しくてたまらなくなっちゃって。本当、情けないけど、今までずっとあの子に寄りかかって生きてたんだって、やっとわかった。私は頑張って自分でちゃんと立ってるつもりだったのにね。背筋ピンと伸ばして、真っすぐ前見てって、そう思ってただけだったみたい」
 泣かないで、と思った。葉月のように、自分の哀しみを正確に分析したり、客観的に自分を見つめ直したり、感情を鎮静化させたりができる人間でさえもなお、こんなに弱く脆くなるのだ。哀しみは伝染する。気を引き締めていないことには、すぐにそれに冒されてしまうだろう。葉月よりもはるかに弱い吟子には、それに感染しない他に回避する手段はない。
 ここで、崩れるわけには、いかないのだ。
「あの子、何て言ったと思う?『結局私たち、いつまでも一緒にいたところで何も生み出せやしないのよ』って、そう言うの。私言ってやったわ。生み出してはいないけれど、たくさん吸収したものはあるって。目には映らないけど、感じることはできるって。それじゃあダメなのかな?」
 驚く程はっきりと、冷静に葉月は話した。その言葉の意味を理解しようとしているように。自分自身に問いかけるように。吟子はただ黙っていた。同情の頷きや、慰めの言葉など必要ない。
 葉月の恋人の藤森朱(ふじもりあけみ)には一度しか会ったことはなかったが、葉月がしょっちゅう話題に上げるので、吟子のイメージの中ではどんどん成長して人格を持っていた。葉月と同じように毅然としていて気が強くて、それでいて大雑把でよく声を出して笑う、そんな感じだ。似ているようで似ていない、一つの雰囲気を共有できる二人だったはずなのに、何がそれを壊すことになったのか。
「不安だって言うのよ。このままずっと一緒にいたって、これ以上どうなるわけでもない。何も変化がないっていうのが怖いんだって。みんなに祝福される恋人同士に憧れる年齢になっちゃったのね、だって」
 一口、ビールの缶に口を付ける。
「そう思ったらね、私のことが怖くなってきちゃったんだって。あの子ったら、自分の気持ちよりも私の想いの方が大きいって、気付いちゃったのね。だから、食べられてしまいそうに感じたの。バカな子。友達にさえなれないってわかったから、私を傷付けてでも逃げようと思ったんですって。私に怯えてたのね。私、怖がられてたのね。全然知らなかった。あの子のことばかり見ているつもりだったのに、何一つ見えてなかったんだわ」
 少し遠くを見つめ、すぐに吟子のところまで意識を戻し、手元の缶に視線を落とした。口唇で笑いながら、目の奥の方は確かに泣いていた。目に見えない涙の代わりにこぼしたのは、溜め息と短い言葉。
「ねぇ。私ってかわいそうね」
 生温くなったビールを無理に流し込み、空になった缶をぱりぱり鳴らす葉月を、吟子は抱きしめてやりたかった。
「でも言いたいこと言えてすっきりした。ごめんね。ありがとう、吟子」
 そう言って屈託のない笑顔を見せる彼女を、泣かせてやりたかった。
 吟子は結局何も変わっていない。親友にかけてやる言葉さえ、自分は持ち合わせていないのか。あるのは葉月に対する劣等感と罪悪感だった。
 こんなふうに自分に正直に生きられたらどんなにいいだろう。誰を煩わせるでもなく、誇りを持てたなら。
 けれどとてもそんなふうにはなれない。心の奥底で美緒のことを苦しく想いながらも、ヒロヤと当たり障りのない恋人でいる自分をどうして壊せるだろうか。禁じられた関係と否定されながら熱く激しい恋を貫くことよりも、無難な生き方と言われても穏やかな日常を過ごすことを、既に吟子は選んでしまっていた。きっと朱も結局は吟子と同じ側の人間だったのだろう。ほんの少し不幸だったのは、一方的に惚れ込んで勝手に諦めを決めた片想いの吟子とは違って、朱は相思相愛だった葉月を傷付けるよりほかに方法が見つけられなかったことだ。
「……もう、会わないの……?」
 まるで自分が会ってもらえなくなるような錯覚。心当たりがないとは言えない。
「結果的にはそうなるかも知れない。私から会いに行くなんて、できっこないから。かわいそうだもんね」
「それでも、いいの?」
「仕方ないわ」
「嫌いになったの?」
 どうしてそんなことを訊くのかという怪訝そうな顔。しかし吟子の見上げるような視線が決して興味本位でないことを知って、その言葉をもう一度自分に投げかけた。
「嫌いになったのかって?」
 その瞬間葉月の心の中で、何かが音をたてて壊れた。ぐい、と胸を押さえ付けられるような想い。
「そんなわけないじゃない。嫌いになれるくらいなら、こんな哀しい気持ちになんてなってない。好きよ。好きよ、愛してるわ、誰よりも。そんなこと、あの子が一番知ってるに決まってるじゃない!」
 堰(せき)を切ったように溢れ出した涙はとめどなく、そのうち葉月は堪え切れずに声を上げて泣き出した。そんな彼女の髪を軽くなでながら、吟子が落としていた大粒の涙には、どちらも長い間気付くことがなかった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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