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僕の文章はもう誰にも読まれない

 僕の文章はもう誰にも読まれない。待っている読者がいないのだ。そりゃあみんな現実世界を生き抜くのに忙しいから、他人の文章を読んでいる暇なんてないし、どこもかしこも文章で溢れ返っている。形骸化された不必要な報告文や結論を探すだけで時間がかかる上司からの長文メールやマスターベーションを見せつけてくる自意識がだだ漏れのツイートなど。僕たちは文章にうんざりしているのだ。まあ他人の文章を読むのが好きな変わり者も少しはいるが。ただそういう人だってわざわざ僕の文章なんて読まないだろう。せっかく読むなら村上春樹や夏目漱石を読んだ方がよっぽど有意義な時間を過ごせる。

 そもそも何故僕がこんなことを考えているかというと、僕自身が書きたい文章を書けない点にある。何故なら読まれないからだ。僕は誰も読んでくれないような文章を書けないのだ。ここに僕が抱えている根本的な問題がある。勘違いしてほしくないのだが、誰も読んでくれないような文章を書けないというのは、下手な文章を書けないという意味ではなく、読んでくれる人がいないと文章を書けないということだ。文章とは何のために書くものなのだろう。僕はどうしても目的的に文章を書いてしまうようだ。気付いたら文章を書いていたとか、いつの間にか文章を書くことに没頭していたみたいな体験がほとんどない。みんなはどうやって文章を書いているのだろう。或いは文章を書くことを楽しんでいるのだろうか。ちなみに僕は文章を書くことがあまり楽しいとは思えない。

 僕は最近「恋愛に詳しい人」のような扱いを受ける。正直これがなんとも嫌だ。僕は恋愛に関して何も詳しくない。恋愛経験だって少ないし、そもそもそこまで恋愛というものに関心がない。だから恋愛アドバイザー的な立ち位置にされることに窮屈さを覚える。申し訳ないです僕はそんなに凄い人ではないのです勘違いさせてしまってすみませんと言いたいところだが、そんなことを言ってしまうと社会不適合者に後戻りしかねないので「ありがとうございます」と言っておく。とにかく僕は恋愛に詳しくないのだ。じゃあ何でそんなに恋愛に関してアドバイスをしたり文章が書けたりできるかというと、想像力を働かせているだけの話だ。想像力に知識はそこまで関係してないと思う。知らなくても想像すればいいのだから。まあしかしその想像があまり独りよがりになっていないのは、僕自身が大衆の感覚を持っているからだろう。或いは大衆の思考や感情に自己を投影しているのかもしれない。大衆というのはそこらへんにいる人々だ。彼らの行動や発言を注意深く観察し、あれこれ思考を巡らせていればそこまで難しいことではない。大切なのは観察する際に、すぐに決めつけたり枠に押し込めたりせずに、ありのままに見ようとすることだ。

 自分の文章を読んでもらうためには、読んでもらえる文章を書かなければならない。当たり前だ。見た目が不味そうなラーメンを誰も食べたいとは思わない。要するに、僕にとって読まれる文章がたまたま恋愛系の内容であったという話なのだ。だから僕は大衆に迎合する形で恋愛系のツイートでフォロワーを増やした。結果僕は恋愛系のツイート以外では文章を読まれないアカウントになってしまった。何とも皮肉な話だ。だから僕の戦いはここから始まる。今まさに僕はスタート地点にいるのだ。フォロワーだけが無駄に多い弱小アカウントとして僕は走り続ける。行手を阻む何かが現れても、僕は走り続ける。だって今までもそうしてきたじゃないか。多くの人間に罵倒されながらも自分の選択を貫き通せた過去がある。時に過去が僕の後ろから服を引っ張ってくる。だけどそれに負けてはいけない。前を見るんだ。そして遠くを見るんだ。何も考えず、ただただ足を前に動かせ。いつか辿り着く。ある場所に辿り着かなくても、自分なりに納得する真実に辿り着ける。僕は信じる。苦しいほうに身をよじりながらも走るんだ。

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