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その饗宴に招かれたい

さて、今回は好きな文学作品について語ろうと思います。なぜあえて小説ではなく文学作品かというと、一番好きな作品が戯曲だからです。
非常に有名なその戯曲は、ドイツに伝わる伝説を元に書かれたゲーテの代表作、「ファウスト」です。子供の頃から繰り返し飽きるほど読み返した、長大で不思議な世界観の物語です。これほど強く惹きつけられながらも謎な作品は他にありません。

「ファウスト」は手塚治虫が何度か漫画化していますし、バレエの「ヴァルプルギスの夜」など派生作品も多く(バレエはオペラからの派生ですが)、主人公のファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの名前くらいはご存じの方も多いのではないでしょうか。
ざっくりとどんな話かを説明すると、主(神)とファウストを堕落させられるかを賭けた悪魔のメフィストフェレスは、ファウストとある契約をします。契約の内容は、願いを叶える代わりに満足を得て「時よ止まれ、汝は美しい」という言葉を口にしたらそこで終了、死後の魂は悪魔に引き渡すというものです。
そうして若返ったファウストはグレートヒェンという若い娘に恋をし、彼女の母を死なせ、兄を殺します。また彼女自身も出産した子供を殺して投獄され死を迎えますが、その魂は天に救済されます。
次にファウストは古代ギリシャの世界で絶世の美女ヘレナと結ばれますが、彼らの子供は死に、同時にヘレナも消えてしまいます。
その後もローマ皇帝の元で戦争したり、海岸を埋め立てたり、老夫婦を立ち退かせようと殺してしまったり、悪魔の力を借りていろいろ活動しているうちについに禁句を口にしたファウストは、賭けに負けて絶命しますが、その魂はメフィストフェレスものにはなりませんでした。天に召されたグレートヒェンが聖母マリアに祈ったおかげで彼の魂は救済されたのです。
というのが大雑把なあらすじです。

私は小学生の時に簡易版の小説でこの作品に出逢い、中学生になってから改めて戯曲を文庫で読んだのですが、まずこの作品には大きな大きな疑問が存在するのです。
小学生の時に読んだ小説は、その辺りが適当に誤魔化されていてなんとなく納得してしまったのですが、中学生になってから元々の文章の翻訳したものを読んでみて、あれ? となったのです。
それはとても根幹的というか、この物語の結末そのものに対する疑問です。

この話をさらに短く要約すると、「メフィストフェレスと死後の魂を賭けて契約したファウストが、賭けには負けるが魂は救われる」となります。この一文だけでもう、矛盾している事が分かるかと思います。
なぜファウストは賭けに負けたのに救われたのか。
大きな謎がそこにあるのです。

「時よ止まれ、汝は美しい」という言葉を口にしたら死後に魂を渡すという契約でその通りになったのに、最後の最後で天が「おまえらの契約なんか知らん」とばかりにぶっちぎってファウストの魂を救ってしまうんですね。グレートヒェンが救済の為に祈ったからという以外に特に説明らしい説明もなく。
何、この結末?
グレートヒェンはともかく、なんでファウストまで救われてんの?
神に理屈などないという事でしょうか。初めて戯曲で読んだ時、中学生の私は思いました。
それってありなん?

小学生の私は、子供向け小説に騙されていたのです。
小学生といっても高学年でしたから、戯曲の方を読んでいればさすがに騙されはしなかったでしょう。しかし小説版は誰が書いたのかももう覚えていませんが、あたかもファウスト博士が善人であるかのように錯覚させ、神は良き行いをちゃんと見ていますよ、努力する人は救われるのですよ、的な詭弁で10歳だか11歳だかそこらの幼い私を騙したのです。
ちゃんと読んでみればなんという事でしょう。
ファウスト博士は善人とは程遠く、どちらかというと悪行を働いているし、時を超えてまで女性を不幸にするロクでもない男ではないですか。
しかもたいして反省してなさそうだし。

なんでこんなのを神様は依怙贔屓するのか。
善悪や人間の倫理よりも重視される神の価値観って何? 
しかも不幸にした女性が救済を祈ってくれるとか、それって単に作者の願望じゃないの? 私がグレートヒェンなら救済を祈るどころか、こんなガチクズ呪い殺すわ。

納得いかない事だらけのこの物語になぜか私は異様に興味をひかれて、大人になってからも何度も読み返すようになっていたのでした。


さて、中学生の私は思いました。
なんでこの人救われたん? 神様はどこがお気に召したん? 意味不明……
そして高校生の私は、再び読み返して思いました。
もしかしてキリスト教だから? キリストが十字架で人間の罪を贖って救済してくれたから?

私は中学時代、友だちにくっついて日曜学校に通い、毎週聖書を読んでいましたので(ちなみにうちは先祖代々曹洞宗です。私はたぶん仏教徒です。神仏習合を実践しているので、神社にお参りもするしおみくじも引くし、ついでに御守りも買います)、キリスト教が救済の宗教だという事は知っています。
人間は生まれながらに原罪を持っているので、ファウストが悪いヤツだと人間基準で感じても、神様からしたら皆似たようなもので、元カノが救済の祈りを捧げてくれたから救済しましょうという程度なのかもしれない。そんなふうに考えたりもしました。
しかしなんだかモヤっとします。

大学生の私もこの話を読み返しました。
ますますモヤります。
そんな簡単に救済されるなら、メフィストフェレスはなんの為に賭けをしたのよ、と思います。
この話、正直言ってファウストよりもメフィストフェレスの方が魅力的なんですよ。ツッコミも的確だし、時々正論ぶちかますし、自分勝手なファウストより可愛げがあるのです。
しかし彼は負けました。ファウストとの賭けには勝ちましたが、神との賭けに負けました。たぶんなぜ負けたのか分からなかったでしょう。私と同じで、そんなんあり? と理不尽さに納得できなかったと思います。
だいたいファウストってそんなあっさり救済されるほど信心深かったでしょうか。元カノがいくら信心深くても、本人が反省してないのに許されるとかおかしいじゃないですか。
いっそ仏教の話なら六道輪廻で畜生道とか地獄道に転生するかもしれないのに、などと想像する事もありました。

社会人の私もしつこく何度か読み返しています。
20代の時のホームページに載せていたレビューを再掲します。


「戯曲っていうと、あまり読み慣れないという人もいるかもしれませんが、場面を思い浮かべながら読むと案外おもしろいものです。特にこの話は設定がかなりドラマティックで興味深い。
老いてなお尽きることのない知識欲から、悪魔メフィストーフェレスとこの世の快楽と引き換えに魂を渡す契約をしたファウストは、若返り少女と恋に落ちるが、結果その少女を不幸にし、その後冥府に下り古代ギリシアの伝説の美女と結婚する。そしてついに彼は真の幸福を見つけ、賭けに負ける言葉を口にするが、彼の魂は悪魔の手を離れ天上へ昇ってゆく。
以上が簡単な概要ですが、私は最初これを読んだ時、どうしても納得いきませんでした。最後にいくら真実にたどりついたからって、それまでろくでもないことばかりしてきた主人公が、なぜ天国に召されるのか? こんなヤツは、悪魔に連れていかれるべきだ、と思ったのです。
どうやら、なぜ彼が賭けに負けても天国に行ったのかは、いろいろなところで論じられているらしいですが、その中で私が1番気に入った回答は、ゲーテは主人公に自分を重ねていて、自分を救いたいが故、ファウストのことも無理やり救ってしまった、というものです。
なんか妙に納得のいく回答でしたね。
それはともかく、私はこの話、中学生の時から4度読みましたが、読むたびに印象の違う話です。けれど、いつ読んでも、何か引きつけられる不思議な話なんですよね」


25歳くらいの時に書いたものです。どうやら小学生の時に読んだ小説版はカウントされていないようです(笑)。
相変わらず同じような事を言ってますが、最後の一文にある通り「何か引きつけられる不思議な話」であるが故、何度も何度も読み返しているわけです。
ゲーテがファウストに自分を重ねて無理やり救った、というのは今でも半分くらいはそうじゃないかなと思っています。


さて、こうして何度も「ファウスト」を読んできたわけですが、この話はゲーテが60年もかけて書いただけあって、やたらと難解です。以前どなたかのブログで「ファウスト」について言及していたのを読んだ時、「そんな事ない、簡単だったよ」と言ってくる人がいるかもしれないが絶対信用するなと書かれていて、100回頷きたい気持ちになった程です。
第1部のグレートヒェン悲劇と呼ばれる話は、わりと分かりやすいです。あえて言うなら、魔女たちの饗宴「ヴァルプルギスの夜」がシェイクスピア作品の登場人物なども登場して、元ネタが分からないと読みづらいかもしれません。

一方第2部はもう、初めて読んだ時は何が何だかという世界でした。
ちなみに小学生の時読んだ簡易版小説は、第2部がほぼ丸ごと省かれていました。グレートヒェンが死んだ後、どうやってかいきなりラストへ飛んでいたのです。力技も力技です。
それはともかく戯曲の方は、長く難しい第2部が広大な砂漠のように目の前にデデデンと広がっているわけです。

特になんだこりゃなのが「古典的ヴァルプルギスの夜」と呼ばれる場面です。またヴァルプルギスの夜? と思われるかもしれませんが、こちらは時を超えて古代ギリシャの世界へ旅立ってしまいますので、古代の魔物の饗宴です。
この饗宴には、それはもうたくさんの登場人物が現れます。ギリシャ神話の登場人物がそのまま出てきたりするのです。
子供の頃にギリシャ神話の本を読みまくっていたおかげでその辺りはなんとかクリアできますが(たとえギリシャ神話を読んでなくても、今時のオタクはアニメや漫画で履修しているので神々の名前くらいではひるまないでしょう。脱線しますけど、第1部の「ヴァルプルギスの夜」や第2部第1幕でシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を知らないといろいろ分かりづらいですが、これも「ガラスの仮面」とか読んでいれば知ってますよね)、ホムンクルス(人造人間)とやらが出てくるともうお手上げです。
最初にこいつが出てきた時の感想といえば、「何ですかこれは?」くらいしかありませんでした。

ファウスト博士の元助手が作った人造人間が、なぜかファウストの夢を感知(?)して彼に着いていき、女神ガラテアに夢中になり最後は儚く消えるのですが、この話は何なのか? なぜ突然人造人間? 
中学生の私は、この一連の話を「謎の生命体の顛末」と読んだまま理解していました。その後繰り返し読む中で漠然と、これは生命そのもののイメージについて書いたものではないのか、あるいは自然というものの探求なのかなと思うようになりましたが、漠然としすぎていてよく分かりません。

そんなある時、私は素晴らしい本の存在を知りました。
エッカーマン著「ゲーテとの対話」です。文字通りゲーテとの長年に亘る対話が日記形式で書かれたものです。この本の中で「ファウスト」についても、直接ゲーテの言葉でいろいろ言及されているのです。
こんな便利な本があるなら早く教えてくれよ! と思った私でした。


「ファウスト」よく分からんという話を延々としておりますが、その中でも特に難しいのが古典的ヴァルプルギスの夜(まだなんとかなる)とホムンクルス(もうお手上げ)であると言いました。これらは第2部の第2幕になります。
第2幕の内容を要約すると、ファウスト博士のかつての助手によってホムンクルスと呼ばれるフラスコの中でしか生存できず完全な肉体を持たない人工生命体が誕生しします。彼は完全な肉体を求めてファウストと共に古代ギリシャの世界へと旅立ち、ヴァルプルギスの夜に加わります。が、やがて海に魅入られ、女神ガラテアに夢中になり、その貝殻の玉座にぶつかってフラスコが砕けると、あえなく消滅してしまうのでした。とこんな話です。

ホムンクルスの一生的なこの話はいったい何なのか。生まれながらに高度な精神体で、完全なるものを求め様々な体験をし、女性に惹かれ、最後は儚く消えてゆく。どこかファウストの人生を凝縮しているようでもあります。
もしかすると、この先賭けに負けて絶命するファウストの未来を暗示しているのでしょうか。しかしホムンクルスはファウストのように周囲を不幸にしているわけではありません。むしろ愛嬌があって可愛いくらいです。どちらかというと性格的にはメフィストフェレスに近い気がします。
単にファウストの未来の暗示として出されたのだとすると可哀想ではないですか。どうせならこっちを救ってやれよと思いますが、消滅してしまったホムンクルスのその後は描かれません。この世だけではなく、あの世まで不条理に満ちているのです。神様の基準はどうなっているのでしょう。

さて、ここで「ゲーテとの対話」という本です。エッカーマンとゲーテの約10年に及ぶ対話集の中には、ファウストに関する記述が度々登場します。
その中でホムンクルスについて書かれている1829年12月16日の部分を見てみると、ゲーテがホムンクルスはデーモンの中に入れてもいい、メフィストフェレスと一種の血縁であると言っています。なるほどこれで、どちらかというとメフィストフェレスに近いという印象の理由が分かりました。やっぱり作者に聞くのが早いですね。
人造人間でありながらデーモン、そして肉体がない。つまり精神体、霊的な存在という事でしょうか。物質ではなく目に見えないもの、何かの象徴として描かれているのだろうなというのは、読んでいてもなんとなく伝わってきます。
そして、完全を求めながら最後は砕け散って消滅していくというのが、やはり生命的なものをイメージしているのかなと、最初の感想に戻るわけです。

「ゲーテとの対話」では、メフィストフェレスがホムンクルスと精神の点では似ているが、美と有益な活動とに対する傾きの点で劣っているとも言及されています。ホムンクルスが不完全から完全へと進化しようと活動する部分は、ファウストの方に近いのかもしれません。
ラストのヒントがこの辺りにあるような気もしますが、ファウストはあくまでも肉体を持った人間で、最終的に絶命しますがそれは肉体の消滅で、残った魂は救済されます。救済の基準は置いておくとして、ホムンクルスは元々精神的存在なので、それが消滅したら何も残らないという事なのかな、と一応自分を納得させてみました。
ただ、消滅といってもホムンクルスの最期は海を象徴するガラテアの中に飛び込む、つまり海と一つになったとも取れるので、生まれ、活動し、海に還るという生成と循環、要するに地球の自然の営み的なものも感じたりします。
直接全体のストーリーは左右しないこの謎の人造人間物語は、人工的な生命でありながら自然そのもののような不思議な世界観で、第2部を鮮やかに混乱させているのです。

鮮やか、というイメージはおそらくホムンクルスと共に描かれた古典的ヴァルプルギスの夜から来るものだと思います。そこでは、古代に生きるたくさんの人物が個性豊かに鮮やかに表現されています。
またまた「ゲーテとの対話」からですが、古典的ヴァルプルギスの夜について「共和制そのものだよ。一切のものが共存しているから、皆同等だとみなされる。だれも他人に従属も干渉もしないからだ」と述べられています。
私がファウストに長年感じている魅力は、この妖しげかつ楽しそうな神々と魔物たちの祝祭の存在が大きいのだと思います。読み返すたび、その饗宴に自分も招かれたいという気分にさせられるのです。


さて、初めて読んだ時の素朴な疑問、なぜファウストは賭けに負けたのに救われたのか、というところに戻ります。
なぜ救われたのか。
少々よろしくない事はしても神様の価値観では些末な事で、その探求心だとか精神活動とかの方が評価されているのか。
ファウスト本人はそこまで信心深くは見えないけど、祈ってくれた元カノが愛情深く宗教心に溢れていたからその恩恵に預かったのか。
ゲーテがファウストに自分を重ねて、とりあえず理屈は後で考える事にしてでも救いたかったのか。
思いつくのはこれくらいですが、全部の合わせ技って事もありますよね。特に最後の自分を重ねてっていうのは、若い頃から書き始めて第5幕は80代の時に完成してますから、自分の死を意識しながら書いたとしても不思議はないですし。まず救いたいという前提があって、その為の枝葉としてグレートヒェンの祈りやその他もろもろが書かれたというのもあり得ると思います。

ここで「ゲーテとの対話」を読んでみます。ゲーテ本人が何を考えていたのか分かる便利な本です。
ゲーテはたびたび運命的な不思議な力に対してデモーニッシュという言葉を使っています。それは悟性や理性で解きえないもので、自然の中に現れ、休む事を知らない無限の活動力に満たされていて、積極的な活動力の中に現れるもの、と説明しています。ちなみにメフィストフェレスは消極的でデモーニッシュなところがないのだそうです。芸術に関しては詩や音楽に現れる、思いがけず人を動かすような力と説明しています。
まあつまり、まとめると能動的な不思議な力という事でしょうか。そして人間は狭い概念で部分的なものしか見ておらず、神の理念は分かりえないというような事も言っています。
やはり「ファウスト」の世界は、普通の人間の理性とか善悪とは次元の違う世界だという事でしょうか。おそらくファウスト博士は人生を能動的に駆け抜け永遠の精神活動を続けようとするデモーニッシュな存在として描かれていて、私のような見たまま「こいつ嫌い」と思う偏狭な人間とはまったく違う高い位置から広く見渡す神が存在する世界観なのでしょう。

そしてゲーテはさらに語ります。
「ファウスト自身には、ますます高くますます清らかならんとする死に至るまでの活動、空からは彼を救わんとする永遠の愛。これは自力のみならずまたそれを救う神の恵みによってのみ浄化されるというわれわれの宗教観と全く一致している」
また、ファウストには「永遠に女性的なるもの、我らを引きて高きに昇らしむ」という有名な一節があります。
こうしてみると、ファウスト自身の資質と女性の愛と神の恵みの合わせ技で書いているような気がしますが、人間の世界で平和に暮らしたい私からすると釈然としない部分も残ります。

しかし釈然としないながらも、ファウストの死をも超え自然をも知りつくそうとする能動的な何か、作品に込められたパワーみたいなもの、人間が過ちをおかす事すらひっくるめて肯定してしまうような懐の深さは感じますし、親しみを感じるメフィストフェレスもそのパワーに勝てなかったのかなという気がします。
疑問に思いながらもこの話に強く惹きつけられるのは、そういう理性を超えたスケールの大きい世界観にもあるのかなと思うのです。

という事で、ぼんやりと分かったような気になったところで終了します。

                          終わり

2019.1.24~2019.2.28  ブログよりまとめ

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