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大蔵さん

今回もまた、本のレビューのような感想のような何かなのであります。
ちなみに今回は、私の大好きな古典文学作品です。上田秋成の『雨月物語』はご存じな方も多いと思いますが、雨月ではなく『春雨物語』です。『春雨物語』は短編小説集ですが、その最後に「樊かい」(はんかい)(かいは檜のきへんをくちへんに換えた字。環境依存文字の為ひらがな)という作品があります。この「樊かい」について語り倒してみたいと思います。
で、タイトルの「大蔵さん」とは何ぞやと思われるかもしれませんが、本来なら「樊かい」としたいところなのです。しかし、タイトルで正確な表記ができないというのもなんかまぬけじゃないですか。そこで樊かいというのは途中から主人公が名乗った名前で元々の名前は大蔵である事から、そちらにしたというわけです。ただし「大蔵」だとなんか呼び捨て感激しいので、「大蔵さん」と敬称付きです。

『春雨物語』が『雨月物語』ほどメジャーでないのは、幻想的な分かりやすい怪談の『雨月』と比べてテーマが多岐に渡り、作者の歴史観まで投入されてカテゴライズしにくいのも一つの理由かなと思います。実際、当時もこの作品は出版される事なく、何度も改稿されながら写本として伝わったのです。
出版して世に出すよりも自分の納得いくまで書きたい秋成の偏屈もあるのでしょうが、あまり出版向きではないと思う要素もあったのではないでしょうか。
出版向きでない最たる理由にこの「樊かい」の存在があった事は、写本を書き写した人の言葉からも分かります。親殺しを描いた「樊かい」と主君殺しを描いた「捨石丸」の二編は恐ろしくてとても書き写せませんと言っていて、実際にこの二編抜きの写本というのも存在しているのです。

さてそんな写す事を拒否されてしまったほどの「樊かい」とはどんな話なのか。超簡単に概要を述べてみます。

力自慢の大蔵さんという男がいましたが、実家で盗みを働き、追ってきた父と兄を谷へ突き落して殺して逃げ、大悪人として諸国に手配されました。
その後樊かいと名を改め盗賊の一味に加わりますが、ある時江戸へ向かう途中で一人の僧を脅して金を奪います。するとしばらくしてその僧が戻ってきて、嘘をついて有り金全部渡さなかったのはいさぎよくなかったと言って残りのお金も差し出しました。
その態度に衝撃を受けた樊かいは、以後この僧の弟子となり仏道修行の道に入ります。そして大和尚としてかつての自分の行いを語り、「心納むれば誰も仏心なり。放てば妖魔」という言葉を残して亡くなりました。

結構無茶苦茶というか奔放かつ極端な話です。現代ならまだしも、儒教はびこる江戸時代には、不謹慎極まりない話でもあります。
奔放というならば、江戸時代前期には井原西鶴というベストセラー作家がいて、色事やら銭やらの話をガンガン書きまくりましたが、彼のデビュー作「好色一代男」では最後に主人公が海の彼方にあると言われる女だらけの女護島めざして船出し消息をたつという、なかなかのぶっ飛び方です。
また後期には曲亭馬琴というプロの専業ライターが出現し、「南総里見八犬伝」なんていうスーパートンチキな面白大長編を書いています。ただしスーパートンチキといっても勧善懲悪、因果応報の物語で、仁義礼智忠信考悌といった儒教思想を大事にしています。

で、馬琴より少し前の偏屈作家秋成ですが、先にあげた二人とはたぶん奔放の方向性が違います。『春雨物語』自体は、今読めばそこまでぶっ飛んだ設定というわけではないと思うのですが、なんせ儒教の影響色濃い江戸時代です。忠義を重んじ、親殺しは最大の重罪という時代に、「樊かい」がかなりのヤバい内容だった事は想像に難くありません。
さらに改稿前と改稿後を比べると、改稿後の方がますますヤバくなっているのです。儒教的価値観をぶっちぎっているのです。それも既成概念に反発してやる! というような厨ニ病的なヤバさではなくて、個性を書くのに邪魔なものを削った結果そうなったという感じがますますヤバいです。
ヤバいヤバい連呼してますが、言い換えるとすれば「近代的」という言葉が相応しいのかもしれません。


樊かいこと大蔵さんは、その前半生において盗みや強盗など多くの罪をおかしますが、その中で最も重い罪は、改名前に実家から出奔する時の父殺しです。
江戸時代は主殺しと共に大罪とされた親殺しは、死罪の中でも重い磔の刑にされたそうです。怖いですね。今風に言うと尊属殺人でしょうか。
しかし現在は尊属殺人の刑を重くすると、法の下の平等に反するので憲法違反となってしまいます。一方江戸時代は、法の下の平等など知ったこっちゃありません。例え毒親でも殺してしまえば死罪確定です。

もっとも大蔵さんのお父さんは、改稿前はちょっと毒親っぽい感じで虐待とかしてる風だったのですが、改稿後は特にそんな描写は見られません。またお兄さんも改稿前は弟をあざ笑って意地悪な事を言っていますし、死罪確定とはいっても、一応父と兄を殺すのに同情されるような理由付けはしてるのです。
それはそうでしょう。現代とはまず規範が違うのですから。価値観の違いというと分かりやすいでしょうか。今でももちろん親を殺す事は悪ですが、当時はとんでもない悪、言語道断の世界です。親孝行を奨励する儒教・朱子学がメジャー思想で、孝行に値しない親には孝行しなくていいという陽明学は、同じ儒教の一派とはいえ危険思想扱いでマイナーでした。
「こんな話書き写したくないです」と写本に入れるのを拒否られるくらいには、親孝行という既成概念が今以上に根強く染みついている時代だったのです。秋成自身もその既成概念に囚われている部分があったのでしょう。だから最初は親が酷いという理由付けをしたと思われます。

ところが改稿後のふっ切れ方には、なかなか目を見張るものがあります。
『春雨物語』は何度も改稿を重ねており、「樊かい」が収録されている文化5年(1808年)に成立したと言われる写本と、自筆稿本を改稿した最終稿本で父殺しの場面を比べてみると、その違いは一目瞭然です。
文化五年の本では、盗みを働いた息子を追ってきた父親が釜を大蔵さんの肩に打ち立てる場面があったり、大蔵さんも父と兄を殺した事に恐ろしさを感じていたりします。また、「親、兄の恵みしかまであらば、殺さじ。まことの親なり」と親の恵みが大きければ殺しはしなかったと言っています。
つまり父殺しの原因は毒親への憎悪であり、大蔵さん自身それが恐ろしい事だと自覚しているのです。ところが最終稿では、そのような描写があっさり削られています。もっともらしい理由はなりをひそめ、なりゆきでさっくり父と兄を殺して逃げてしまうのです。
今でいうとサイコパス? 大蔵さん、怖いです。

なぜ親殺しの禁忌を強調し、理由付けする描写を削ったのか。
邪魔だから削ったのでしょう。「放てば妖魔」な人間の性質を純粋に描くのに、そのような既成概念は邪魔だったのだと思います。
『雨月物語』では、人間はなかなか自分の心を制御する事のできない存在で、霊的なものに翻弄される姿を幻想的に描いていますが、『春雨物語』の「樊かい」に登場するのはより主体的な精神を持つ人間です。大蔵さんは自分の意志で罪をおかし、自分の意志で改心します。改稿後は特に、周囲の圧力や規範に左右される事なく、よくも悪くも純粋な性質の人間として描かれています。
反省も恐怖もなく悪事を重ねた大蔵さんが最後はあっさり改心して大往生してしまうという、とても当時の常識からは考えられない(今の常識からもあんまり考えられない)極端な話を書いたのは、何か一般的な人間像とは違うものが書きたかったのでしょう。

それでいてどこか人間の本質をついているようにも思えるのは、大蔵さんが大胆で無邪気に、理由や理屈なしに感情の赴くまま悪事を働く人物であると同時に、やはり感情の赴くまま改心し悪を捨てる人物でもあるところから、生まれたままのむき出しの感情を見ているような気持ちになるからではないでしょうか。
現実の人間は社会的な制約の枠の中で生きており、善悪に対する判断基準もそこから発生します。しかし、大蔵さんはそのような社会的な制約による葛藤とは無縁です。
これほど実際の人間には考えられないような、無垢の人間性そのもののような主人公を、なぜ秋成は書こうと思ったのか。とても興味深いと思います。


文化五年の写本に比べ、最終稿本からは親殺しの理由付けが削られているという事は述べてきましたが、何も削られてばかりではありません。付け加えられている部分もあります。
大蔵さんの描写として、親を殺して恐ろしさに慄く当たり前の性質は省かれましたが、代わりに大蔵さんの性格がうかがえるような文章がいくつか加えられているのです。例えば自分が殺した馬を見て「さむしとて馬が泣かんよ」と盗んだ余り物を着せかけてみたりします。殺しに躊躇はないくせに、妙なところで人間らしさを発揮する大蔵さんなのです。
このように、この時代には普通の親子関係のあり方を削る代わりに、主人公の個性を詳しく描写し人間性を強調してくるというのは、やはり既存の価値観の影響から離れたところで本質的なものを書きたかったのかなという気がします。

実は『雨月物語』にも「樊かい」と似たテーマの作品があります。「青頭巾」という話ですが、この中に「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」という言葉が出てきます。「樊かい」のラストと似ていますね。
ところがこの「青頭巾」に出てくる食人鬼の僧は、自分の意志で悪事の限りをつくしたあげくあっさり改心した大蔵さんとは違い、嘆きのあまり心を狂わせて人食い鬼になり、自分ではどうにも制御できず他人の霊的な力によって消え去るという、他力本願かつ非現実的な結末を迎えるんですね。
善悪でいったら、たぶん大蔵さんの方がより悪で酷い人なんでしょうけど、現実的で自発的なせいか力強く生命力にあふれていて、なんか面白いんですよね。
平たく言うと、「生きてる」って感じがするんです。

『雨月物語』が幻想的で囚われた面白さだとしたら、「樊かい」を始めとする『春雨物語』は、全体的により自由な雰囲気を持っています。歴史小説は正史なんて不確実だとぶっちぎって虚構を混ぜ込んでくるし、社会小説は儒教などの規範だとか権威をぶっちぎって自分の意志で生きる人間が出てきます。
その中でも「樊かい」のような極端な話を書いたのは、運命に翻弄される人間ばかりでは物足りなくなったのでしょうか。大蔵さんはとんでもないキャラクターだけど、ある意味外圧の一切ない状態の、人間本来の姿なのかもしれません。
そんな大蔵さんを描くために、当時の既成概念をガリガリ削って行った秋成はずいぶん大胆だと思いますし、ただ面白いだけでなくとてつもなく新しい、それこそ出版できないくらい新しすぎたのだと思います。

ヤバいくらい自由で新しい。
それがこの話の強烈な吸引力の正体なのでしょう。


                          終わり

2019.2.28~2019.3.2  ブログよりまとめ

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