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箕島ー星稜 縁なる激闘

春の選抜高校野球は東海大相模高校の優勝で幕を閉じた。

昨年はコロナ禍の影響で春夏の大会が中止となり2年ぶりのセンバツとなったが、競技上において、2018年から導入されているタイブレークに加えて1投手につき1週間500球以内の球数制限が今大会初めて採用された。

このような制限・制約をすることで、かつて多くの感動を呼んできた「いつ終わるともわからない延長戦を1人の投手が投げ抜く」といったタイプの名勝負は今後少なくなっていくものと思われる。

今までの「劇的なる甲子園」の一要素がなくなっていくのは寂しいが、このような選手の健康を優先して考える、選手第一のことをようやくやり始めたことで、観る側の意識もこれからは変えていかなくてはいけないのかもしれない。

そういった意味では次に紹介する試合はもうこの先二度とないであろう高校球史に残る熱戦であり、その時のことは今でも鮮明に覚えている。

1979年8月16日、第61回全国高等学校野球選手権大会3回戦

星稜 000 100 000 001 000 100 | 3                箕島 000 100 000 001 000 101 | 4              (延長18回)             

この試合が行われていた時、わたしは列車の中にいた。          当時小学4年生。夏休み、初めての東京旅行での帰りの車中だった。

家は貧乏だった。合わせて3部屋の小さなアパートに両親と弟と4人で暮らしていた。それまで夏休みにあまり家族で遠出をした記憶がなかった。せいぜい、長岡から60キロ離れた、両親の実家のある新潟市に帰省するくらいであった。

それがこの年は、いつも帰省をする時期に東京に1泊2日の旅行に行くことになった。テレビでしか見たことのない東京。そこに行って東京の景色、名所をこの目で見る。ワクワクしないはずがなかった。

特急とき(だったと思う)に朝の9時ころ、長岡駅から乗車する。乗ってからしばらくは家族4人とも言葉少なだった。滅多にない状況の中、どう盛り上がっていいのかわからなかった。

それが、「国境」を越えてしばらくしてからだろうか、突然、「あっち向いてホイ」をやろうということになった。やろうと言ったのは父だっただろうか。当時、萩本欽一さん司会の「スター誕生」のお遊びコーナーで流行って?いたオーバーリアクションの「あっち向いてホイ」だった。雰囲気は伝わらないかもしれないが、「っあっち向いてーーー、ホイッ!!」こんな感じ。大盛り上がりだった。普段見ない、はしゃぐ父がそこにいた。明るく、さっぱりした母、元気でやんちゃな弟はいつも通りなのだが、こんな父は今まで見たことがなかった。それは、結婚前に住んでいていろいろ知っている東京に行く喜びではなく、子どもたちを東京に連れていける喜びを感じているようであった。

行った場所は上野動物園、東京タワー、船の科学館、あと兄弟ともに相撲が好きだったので蔵前国技館に併設されていた相撲博物館と両国界隈。乗った乗り物は山手線、モノレールなど。今にして思えば修学旅行的な、極めてオーソドックスなルートだったのだがそんなことは関係なかった。     この旅行は「子どもたちのために思い出を」と、「親」を頑張っていた父の作品だった。息子たちの喜びも含めて。

2日間の東京旅行を満喫した後、上野駅から帰りの列車に乗る。5時ころだっただろうか。

ところが、帰りの車中のことは一切覚えていない。寝ていたのだろうか。子どものころから神経質だったわたしは乗り物の中で寝るのが苦手だったはずなのだが。でも、覚えていない。やっぱり寝ていたのだろう。      起きていたら・・・。当時からポータブルラジオはあったはずだ。「あの試合」を聴いていた人はいたはずだ。その熱狂はもしかするとパーソナルスペースから飛び出し、周囲で小さな熱狂の渦を作っていたかもしれない。地元新潟代表(ちなみにこの時は長岡高校。初戦敗退だった)の試合以外はそれなりの興味があるという程度だった高校野球。この日の3回戦のカードがどんなだったかはあまり眼中になかったのだが、その熱狂からくるざわつきに対して「あのざわざわはなんだろう」と感じることができたかとも思う。ただ、引っ込み思案の子どもだったので、見知らぬ人に「おじさん、どうしたの?」と訊くことはおそらくできなかっただろう。

夜の8時すぎに駅に降り立ち、その後駅前を離れて遅い夕飯をとる。行き先は初めて行った寿司屋。今だとそのくらいの時間でも多くの選択肢があるのだが、この時代だと繁華街でもないところで開いている食べ物屋は寿司屋くらいしかなかった。

平日の夜。わたしたち家族のほかにお客はほとんどいなかった。カウンター席に座るなり店主が父に話しかけていた。

「いやー、観てましたか?高校野球。8時までやってましたよ」

8時⁉ そこにびっくりした。

わたしは昔も今も、高校野球のナイターが大好きである。ナイターが当たり前のプロ野球とは違う、「非高校野球」的なレアな光景。同じ甲子園でやっているのに阪神戦のナイターとは違う、高校野球独特のナイターの色・雰囲気みたいなものがあり、とてもワクワクする。「そうか、ちょっと見てみたかったな」店主はすぐに寿司を握りはじめ、それ以上話が盛り上がることはなかったが、わたしはその、夜のとばりが降りた後も続いた試合に少し興味を持ちつつ、その日は眠りについた。それが、あの大試合だったとは知らずに・・・。

翌日、いつもの夏の帰省先で見た新聞で「箕島ー星稜」を知ることになる。先に記したスコアが、通常決勝戦でしか見ることのない、ひと回り大きいサイズで掲載されていた。

話はそれるが、野球のスコアというのは他の球技と比べて独特である。サッカーのように前半、後半と時間の決まった枠で記されるスコアでなければ、バレーボールみたいに25点に到達した時点で与えられるセットごとに記されるものでもない。なので他の球技はどんな名勝負であっても、例えばサッカーの「ドーハの悲劇」はスコアにすると、                    

       日本 2  1-0  2 イラク                                            

             1-2                   

と記され、平凡なものとなってしまう。ところが野球は各回の時間無制限である、最低でも9回表裏のイニングごとに記されるのでスコアが細分化され、さらに延長戦は決められたイニング数で決着がつくまで行われるので、時としてスコアにおいても一目ですごい試合だとわかる「名作」が生まれる。「箕島ー星稜」は延長の長さもさることながら、18回を除いて各表裏の得点が同じだというのもあり、スコア表記では「名作」の最たるものであると言っていい。それゆえの新聞での「特別サイズ」だったのか。

話は戻って・・・。

「星稜に勝たせたかったねえ」伯父が残念そうに語る。家族ともども、その見逃した試合で盛り上がる。どんなすごい試合だったのか、想像がふくらむ。

大会閉幕後、NHKで大会を振り返る特集が組まれ、この試合の展開を映像で見ることができた。16回表の攻撃後の「今度こそ勝つと思いました」のナレーションが印象に残った。この「最高試合」(故阿久悠氏がそう銘打った詩を書いたという)を「見られればよかったかな」という少しの悔恨が、顔をのぞかせた。

そして、あれから40年以上の歳月が流れた。

いまだ衰えることのない高校野球人気はこの試合をいつまでも語り継がれる伝説にした。テレビ・雑誌で組まれる名試合のアンケートでは必ず上位に顔を出し、そのたびに試合のエピソード(16回裏の展開があまりにも有名)や出場選手たちの後日談が語られる。この試合は、もはやリアルタイムで見た気になってしまっている自分がいる。そんなこともあり、試合を見られなかった悔恨は年を追うごとに消えていった。

そして、この試合に触れるたびに、あの日の東京旅行を思い出す。

裕福な家庭だったらもっと多くの、もっと遠くの旅行に行っていただろう。そんな家庭にとって東京に行くのは数ある旅行の思い出の一つに過ぎないのかもしれない。だがわたしにとってはかけがえのない旅行の思い出だ。旅行そのものの思い出だけではなく、両親、特に父の気持ちに思いをめぐらすと胸が少し熱くなる。まだ若かった父が子どもたちの思い出作りのために一生懸命作った東京旅行。あの時の父の年齢をとうに超えたがいまだに結婚をしていないわたしはまだ、その愛情をすべてわかっていないのかもしれないが。

あの日の記憶を呼び起こす縁となっている「箕島ー星稜」。あの日が、決して忘れることのない、宝物のような時間だったことはその試合を戦った選手たちと同じだと思っている。

                              



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